引き金

季節は巡り、冬が春になり、夏になり、秋を越してまた冬になった。何度も何度も同じ事を繰り返したけれど、一つとして同じ一日はなかった。

俺と藤次郎は兄弟で家を支え、藤次郎の傍にはなまえがいた。

貧乏で毎日毎日食うに困って仕方なかったけれど、俺たちは何とか成長した。ひと足先に大人になった俺は軍の学校の門を叩いた。飯だけは食えるからだ。藤次郎は「軍の学校なんて怖いよ」と笑っていたけれど、俺は何かにつけて藤次郎を誘っていた。飯が食えて金も貰える、これ程良い所は無かった。

なまえも、同年代の中では一番美しい娘になった。もっとも、これは藤次郎の受け売りである。なまえが初めて男に想いを告げられた時に言っていたのだ。

「だってなまえは俺の知ってる中で一番きれいな子なんだ。同じ事思ってる奴がいるなんて知ってるよ」

恥ずかしい奴である。

それはそうと弟も柔和な顔立ちや物腰のせいか、娘たちに少し人気があった。陰から様子を窺って、目が合えばきゃあきゃあと燥ぐような娘たちだ。俺がそれを冷かしたら、藤次郎は顔を赤らめて、それでもはっきりとこう言った。

「なまえより、好きな子はいないよ」

それを聞いた時、俺はもう、どうとでもなれば良いと思った。二人の行く末も、俺の曖昧な感情も何もかも。

なまえの周りにも同年代の男がわんさと湧いたけれど、やはりあちらも「同じ」だったようだ。

なまえが十五になった年の冬の終わりに、なまえの家の方から打診があった。二人は「そろそろ」だろうと。

両家の顔合わせなんて、大して意味は無い形式的な物だ。二人は幼馴染で、互いのことを何でも知っていた。何が好きで何が嫌いで、藤次郎の二の腕の内側に木に登ろうとして滑り落ちたなまえを庇った時の傷跡があるのも、何もかも。

顔合わせの場にお転婆だったなまえは、もう影も形もなかった。彼女は恥じらって頬を赤く染め、俯いてただ幸せそうな微笑を浮かべていた。藤次郎は緊張していてなまえの父親への挨拶は、声が裏返っていた。

幸せそうに互いに互いを盗み見て微笑む二人はきっと、祝福される夫婦になるだろうと思った。愛し愛され、互いを尊敬し合う夫婦に。だからこそ、俺には外野の野次が酷く煩く聞こえた。

なまえを狙っていたのだろう家が横槍を入れて来たのだ。曰く「家格が釣り合ってない」との事だ。たかが平民同士の縁談に家格もクソも無いだろうと思った。だがそれは真実でもあった。

貧しくて、明日食う物にも困る俺たちの家に、そんな苦労、した事もないなまえが嫁いでくるのは純粋に大変だろうなあと他人事のように思った。

きっとなまえは驚くだろう。俺たちのあまりの貧しさに。そう言われてみれば、家格が釣り合っていない、もっと言えば家の経済状態に格差があるこの縁談は、文句の一つでも言われるのやも知れなかった。

「言いたい人には言わせておけば良いわ」

幸いなまえやなまえの家の人間は一笑に付して、俺たちと姻戚関係を結ぶ事にまるで抵抗を見せなかった。けれど、それでも俺たちには嫌な負い目があった。そして殊更に藤次郎はそれを気にしていたのだと思う。なまえの前では何でもない顔をしていたけれど、後で顔を合わせた時に神妙な面持ちで相談を持ち掛けられたからだ。

「……東京行ったら、金って稼げるのかなあ。どれくらいあったら、食うのに困らないんだろう」

それは子供の夢物語みたいな漠然とした想像だった。だが多分、藤次郎の中では切実な想像だったのだろう。それなのに俺は、その感情に気付けずに随分と安直な返答をしてしまったのだ。

「どうだろうな。軍隊に入ったら、飯も食えるし金も貰えるけどな。お前も来るか?」

藤次郎は静かな顔で「軍隊かあ」と生返事をした。冗談と言うよりは一般論のつもりだった。昔から優しくて、荒事の苦手な弟は、そんな選択肢からは対極にいると思っていた。俺はただ、「一般的な回答」をしたかったのだ。俺のように食えない家の子供が軍隊に入るのは珍しく無い事だと。

「軍隊かあ」

弟はもう一度、同じ事を言ってから「ありがと、兄ちゃん」と微笑んで部屋へ引っ込んだ。弟の安心した表情に何故だか嫌な予感がして仕方なかったけれど、俺はそれを確認する勇気も無くて何も言えずにその場を後にするしか出来なかった。

そして弟が、急に軍の学校に入ると言い出したのは、その次の日の事だった。

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