色々な場所を旅して私たちはエジプトに腰を落ち着ける事にした。砂漠の夜はとても静かで、思ったよりも涼しい。ディオは100年の時を追い付いたようで、最近は友達作りばかりしている。
僕の役目もそろそろ終わりかなあ、なんてわざとらしくため息を吐いてみた。しかしそれもカイロの夜のさざめきに消えてしまった。
「ナマエ様」
「テレンス?どうした?」
気付いたら傍らにテレンスが立っていた。彼は屋敷の執事兼昼間の私の遊び相手として傍に置いている。他の「お友達」は世界各地に散りばめた。
テレンスは私の顔を見て少し微笑んでみせた。私も唇を引いて笑みのような表情を作ってみせる。
「夜風はお身体に毒です。……中にお入りください」
「寒くないよ、夏だもの。……それに、子供の頃はもっとずっと、寒くて堪らなかった」
木綿で織られたガラビアは通気性が良くて、蒸し暑さを感じさせない。ここに来た時に真っ先にテレンスが仕立ててくれたその服は動きやすくて、昔着ていたあちこちを締め付ける正装とは全く異なっていた。
夜のお祈りが始まる頃だろうか、アザーンが聞こえて来る。ここの国の人々は信仰に熱心な者が多い。
「お祈りが始まる時間だね。……何だか懐かしいや。私は昔、神学を学んで聖職者になろうとしていたんだ」
「ナマエ様が、ですか?」
「どうしてそんな意外そうな顔をするんだい?昔はとても品行方正でいずれヨークの大主教になるとまで言われていたのに」
「………………」
「だからどうしてそんなに意外そうなんだい」
哄笑してしまう。テレンスの言い分も分からなくはない。今や私は人を騙し陥れ殺す事を恐れない。それどころか神を冒涜して、悪魔のような存在であるディオを再びこの世に放とうとしている。不謹慎だが笑みが浮かぶのを抑える事が出来ない。テレンスを見つめた。
「神の道を選んだのはその方が都合が良かったからだよ」
「どういう、事でございましょう?」
「沢山の人が信仰している対象を司る人間になれば、より多くの人を動かせると思った。ただ、それだけだよ。信じてなんかいなかった」
神の道を歩む事を、望んだ事は一度も無い。いつかディオが全てを支配しようとする時に、「品行方正な弟」という肩書きがあれば便利だと思ったからだ。
神学を学んでいる間も、教えには懐疑的だった。司祭様は「神様はいつも正しい」と仰った。でも、私は知っている。神は間違え得る事を。私たちが二つで生まれてきた事がその最たる例だ。私たちが二つで生まれてきてしまったが故に、母は難産に苦しみ、そして身体を悪くして病を得て死んでしまった。私たちが一つなら或いは。或いはこんな世界に産み落とされた事、それ自体が間違いだったのやも知れぬ。
「いつも、疑っていた。信じよと、言われていたその対象を。私は問うていた。『何故?』と」
心から信じる事は無かった。いつも何処かで疑っていた。私の中で燻る原初の疑義。
「神が全て正しいと言うのなら、どうして私たちを別々に分けたのだろうな」
きっとその問いに対する答えを、テレンスは持ち得ないと思った。私が100年抱えた疑念に、今更答えられる者がいるとしたらそれはきっとディオだけだ。テレンスの顔を見た。彼は言葉に迷っているように唇を引き結んだ。
「……ナマエ様が、私を救ってくださった」
「……?」
「DIO様ではなく、ナマエ様が」
彼が私の足下に跪いて恭しく私の手を取った。司祭様の指輪にキスするように、指先に唇を落とされる。
「私は、ナマエ様に救われました。もし、ナマエ様とDIO様がお二人で一つであったなら」
震える息遣いで一呼吸をおいたテレンスは愛を囁くような熱っぽい瞳で私を見た。
「きっと今、私はここにはいないでしょう」
それは祈りのように見えた。弱き者が神に縋るようなその声が、遠い日の誰かの声と重なった気がした。
「…………いつか、同じ事を誰かに言われた気がする。彼も、言っていた。『私とディオが別たれたからこそ、私とディオは違う事を出来得るのだ』と」
記憶を手繰ったけれどその顔は表情は霧の向こう側に隠れるように目の前には現れてくれなかった。とても些細な記憶だったけれど、それはいつまでも記憶の片隅に残っている鬱陶しい記憶のはずだった。けれどどうしてだろう、とても、とても懐かしい。
「まさか100年の時を超えて『彼』と同じ事を言う人間が現れるなんてね。君はきっと偉大になる。……だって私にそう言った彼は、この世の誰もが知る大財団を築き上げたからね」
己の手を取るテレンスの手に触れた。握り込むように指先に力を込めればテレンスの手にも力が籠る。
「ナマエ様は私の唯一無二でございますれば」
「…………そう、か。ありがとう、君の言う事が本当なら、私が存在する意義も有り得るのだな」
テレンスの手を引いて立ち上がらせる。お祈りが始まったのか、アザーンは鳴り止んでいた。傍を通る風が身体を震わせた。
「部屋にお入りください。……温かなお茶を淹れます」
「今日はミルクが良いなあ。……寒い夜に家族に内緒でディオと飲んだ事がある。蜂蜜入りでとても甘かった」
あの日はとても寒かった。私が稼いだ金とディオが工場で貰ってきた工賃を合わせて、母の滋養になればと買った蜂蜜の余りをディオがホットミルクに入れようと言った。親の目を盗んで何かを口にするなんてした事が無くて、私たちは罪悪感に胸を高鳴らせながら蜂蜜入りのホットミルクを分け合って飲んだ。甘い物なんて殆ど口にした事が無かったからか、それはとても甘く感じられて感情がふわふわと柔らかくなったのを覚えている。
私の思い出を彼は知らないだろうに、テレンスは淡く笑った。微笑ましそうな表情だった。
「ではミルクを温めましょう。すぐにお持ちいたします」
「待って、ディオの部屋に行くからそこに持ってきてくれ。二人分頼むよ」
「……畏まりました」
久しぶりに己の半身の顔を見たいと思った。館の内に気配があるから部屋にいるだろう。ディオがそうであるように、私もディオの、片割れの気配に敏感だった。
ディオは覚えているだろうか。あの寒い夜に二人で分け合ったホットミルクの味を。甘くて甘くて堪らなくて、二人で顔を顰め合った思い出を。
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