ご機嫌な片想い

姉の嫁入りをナマエと見送った時、ナマエは「いいなあ」と少し寂しそうに呟いた。それから「キラウも、いつか結婚しちゃうんだね」と、困ったように呟いた。

俺はナマエが好きだったから、何も言えなかった。ただ俯いて、「まあ、な」という音によく似た曖昧な音を喉から発しただけであった。ナマエは俺の反応を、大人になる事への忌避と感じたのか、「ずっと三人のままいられると思ってた」と呟いた。

それは秋の暮れの事だった。

***

ナマエはコタンの長の娘で、俺の姉の友人で、コタンで唯一俺と同い年の幼馴染だった。彼女は器量良しで気立ても良く、大人にも子供にも人気のある娘で、そんな「人気者」のナマエと俺の姉は歳の離れた友人であった。俺はナマエの幼馴染として扱われたけれど、それは姉とナマエの関係に付随して生まれたようなものだった。事実、俺はナマエと遊んだ事は数える程しかない。ナマエは毎日のように俺のチセに遊びに来て、姉に針仕事を習っていたのだから。

「ナマエはすてきなおよめさんになりたいのよ」

幼い頃夢見るような口調で、そう言われた。いつだったか、針仕事なんて止めて外で遊ぼうと誘った時だった。その言葉に俺は何も言えなくて、曖昧にナマエの嫁入り姿を想像して打ちひしがれた。ナマエの隣に立つ、俺の姿を想像出来なかったからだ。コタンで唯一俺の気持ちを知っていた姉は俺の意気地の無さに肩を竦めていた。

物心ついた頃から、俺はずっとナマエの事が好きだった。優しくて、少し抜けていて、何にだって一生懸命なナマエの事が。でも成長して俺の背がナマエの背を追い越して、俺が一人前の狩人になっても、俺はナマエの前ではずっと子供の頃のように、意気地無しのままだった。

ナマエはいつも大勢に囲まれていた。誰からも求められ、笑っていた。その世界に、果たして俺が存在を許されるのかどうか、俺は確信が持てずにいた。いくつもナマエを想ってメノコマキリを彫った。でもどれもナマエに贈るには足りなくて、俺の家は冬の薪には困らなかった。

ナマエを想い日々が過ぎ、彼女と共に成長した。そんな、大人と子供の中間で藻掻いていた秋の暮れの頃だった。姉が嫁入りしたのは。

姉の相手は、彼女の好いた男だった。コタンの結婚で好いた好かれたで娶されるのはまだ、珍しい部類だった。家の相性とか、そういう物が重視される事の方が多い。だから姉が羨ましかった。好いた相手と一緒になれるのが。晴れやかな、姉の笑顔が忘れられない。それと俺に残された言葉が。

それで、アンタはどうするの?

「良いなあ、好きな人と結婚出来るなんて」

姉を見送って、ぼんやりとしていたらいつの間にか、隣でうっとりと憧れに瞳を蕩けさせたナマエがいた。姉の言葉に放心していた俺は木陰に座り込んだのだった。そしてその隣に、ナマエが腰を下ろしたのだ。姉の言葉が反芻されて妙に彼女を意識してしまう。ナマエにも、好いた相手がいるのだろうか。

「ナマエにもいるのか?」

「何が?」

「……好いた、相手が」

心臓の音が聞こえてしまいそうだ。努めて冷静に、何の気無しに話題を振ったつもりなのに、どうしてだか俺の声は酷く浮いて聞こえた。ナマエは俺からそんな話題を振られるとは思っていなかったのか、目を瞬かせてから照れたように目を伏せた。

「……う、うん。いる、」

分かっていた事だったけれど、頭に一瞬血が上って、それからさっと落ちていくような心持ちがした。足元の地面ががらがらと崩れてしまうような。

「そ、そう、なのか。それは、知らなかったな」

驚きも落ち込みも、声色には乗らなかったと自信があった。だが平静を装うのはキムンカムイを狩る時より、骨が折れる作業に感じた。

「……だって賭けをしているんだもの」

ナマエの小さな声が密やかに俺たちの間に転がった。彼女に視線を遣るとナマエは苦しそうに笑った。

「賭け?」

「そう。大人たちが私の相手を決めるまでにその人が私の気持ちに気付かなかったら、私は、待つのを止めようって」

「……ナマエ、」

「私はコタンコの娘だから、半端な想いで勝手な事は出来ないわ。でももし、彼が私と同じ気持ちなら……」

切なげな瞳の奥に見える柔らかな色が、ナマエの気持ちの強さを感じさせて、感情が握られたように痛む。ナマエにそんな顔をさせるのは、一体誰なのだろう。

「ナマエ、」

勢いでナマエの名を呼んだ。声にならない声だったけれど、隣にいたナマエには届いたようで彼女は首を傾げて俺の顔を覗き込んだ。きらきらと輝く瞳を、これ程美しいと思った事は無いと思った。太陽を受けて輝く水面のような煌めきだと思った。

「……相手の男が、羨ましい」

勝手に口が動く。今、これを言うべきではない事は分かっているのに、もう止められなかった。姉の言葉に対する答えが、これだった。

「……、キラウ、?」

戸惑ったようなナマエの声が酷く遠くに聞こえる。抵抗が無い事を良い事に、まるで当然の帰結のように、俺はナマエに口付けしていた。遠くで誰かが笑った声がした。それはそうだ。今日はめでたい日なのだから。

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