陽が落ちるのが日に日に早くなる。秋はとっくに終わり、冬が勢いを増そうという頃であった。ナマエを見定めに、アカンのコタンから使者が来るという。上手く事が運べば、ナマエは春にはアカンに嫁いでしまうだろう。そうなれば、きっともう、二度と会う事は無い。
ナマエとは姉の嫁入りの時以来、言葉を交わしていない。あの日、許しを得る事もなく口付けた俺を振り返る事も無く、ナマエは去って行った。その意味を知らない程幼くはなかった。俺の積年の想いは誰にも顧みられる事なく死んでしまったのだ。遠目にナマエの姿を見る。幼子らの面倒を見るナマエの朗らかな笑みが俺に向けられる事は、もう叶わない。
だが意識せずともナマエと俺が擦れ違う事はほとんどなかった。元々男と女の仕事は違う。俺は村の外で獲物を狩り、ナマエはコタンで集落の維持に努めた。これで良いと思った。いつだったか、共に狩りをしたシサムから彼らの言葉を幾つか教わった。「初恋は叶わない」と、彼らは言うのだ。ならばこれもきっといつか、苦い思い出になるのだろう。
***
冬の猟で日を跨ぐ事は少なかった。夜は寒く、そこはカムイの世界だからだ。なのに俺はどう目算を誤ったのか、陽が落ちても山にいた。獲物は無く、散々である。
仕方なく以前目星をつけていた洞穴に身を寄せる。すぐに異変に気付いた。誰か、いる。
「…………、っナマエ!?」
「……!キ、ラウシ……?」
そこにいたのはナマエだった。雪に湿った上衣を乾かすために火を起こそうと苦戦しているようだった。
「どうしてここに、」
「……山菜をね、少し取りに来たの。今年は食べ物の貯蔵が少なかったから。少しでも足しにしようと思って」
真っ当な理由なのにナマエは後ろめたい事でもあるかのように、視線を落とした。俺の存在に戸惑っている事は明らかであった。
「キラウシは、どうしてここに?」
「俺は猟の帰りだ。とは言っても成果は無いが」
「そ、そうなんだ。……お疲れ様、」
無理に明るく発せられたナマエの声が洞穴に反響して消える。気まずさを誤魔化すために俺は火起こしを始めた。ナマエがどれ程格闘していたかは分からないが、少しもかからず炎が弾け出し、ナマエが安堵のため息を吐いたのが聞こえた。
火を挟んで向かい合う。炎が作る影はいつものナマエの柔らかな表情を、なんとも言えない艶やかな物に変える。
「ナマエ、」
また勝手に口が動いた。いけないと分かっているのに、ナマエを困らせてしまうと分かっているのに。
「……その、あの時はすまなかった」
「……、っ」
口を開いた癖に何を言えば良いのか分からなくて、最初に浮かんだ言葉を口にした。だが、瞬間それは間違いだと分かった。ナマエの顔が明らかに曇ったからだ。
「…………キラウシは、」
ナマエの声が震えている。怒りか、呆れか、どのような感情にせよ、俺にとって良い方向には進まないだろうと思った。
「キラウシは、誰にでもあんな事をするの……?」
ナマエの声は震えていて、か細くて、頼りなかった。それは恐れの感情に思えた。ナマエの声に怖気付きそうになるのを、必死に耐えた。息を一つ吸って、炎の向こうのナマエを見た。その目の奥を見た。
「違う。ナマエが、好きだからした」
抱えていた年月に比べれば、随分と軽々しく聞こえたその言葉に、ナマエは大仰に目を見開いた。
「ナマエに好かれる男が羨ましい。俺がその男ならどんな事をしたってナマエを嫁にと乞うだろう」
「……!」
「昔から、否、きっと出会った時からナマエが好きだった。だからナマエに好いた男がいると聞いて混乱した。…………それでナマエの許しも得ずにあんな事をしてしまった。……すまない」
最後までナマエの目を見ていたかったのに、臆病な俺は視線を揺らしてしまう。沈黙が落ちて、炎が弾ける不規則な音だけが響く。ナマエの表情は強張っているように見えた。
「…………賭けを、していたの」
「それは知っている。相手の男が気持ちに気付くかどうかだろう」
「私は賭けに勝ったのかしら?それとも、これはまだ続いていると言える?」
「……はあ?」
要領を得ないナマエの言葉に眉を寄せる。炎の向こうのナマエの表情が今度は緩んだように見えた。
「いいえ、きっと私の負けだわ。だってあなた、私の気持ちに全然気付いていないんだもの!」
声を上げて笑ったナマエが炎を回り込んで近付いてくる。隣に座るナマエの輝く瞳は銀雪を照らす月のように見えた。
「好きよ、キラウシ。ずっと好きだった。ずっとずっとあなたのお嫁さんになりたかった」
「は、」
何を言われているのか、理解が出来ず瞠目する俺にナマエは笑う。もう見られないと思っていた朗らかな笑みで。
「私が好きなのはあなた。…………どんな事をしても、お嫁さんにしてくれるって、言ったね?」
悪戯な笑み。笑い声と共に唇が頬に降ってくる。きらきらと輝く瞳に吸い込まれそうだ。漸く言われている事についての理解が追い付いてくる。到底信じられない事だ。だがその瞳に見つめられたならば、何だって不可能ではない気がする。
ナマエを得るためにやらねばならぬ根回しは幾つもある。場合によってはコタンを追われる可能性だって。それでもどうしてだろう、まるで悲壮感などないのだ。あるのはただ、将来への期待のみ。
「約束する。どんな事をしたって、ナマエを嫁に乞う。だから、俺と一緒になってくれ」
「……絶対、だからね」
二度目の口付けはどうしてだろう。一度目のそれより酷く甘く感じたような気がした。
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