それから

ナマエの失踪騒動によって漸く己の心の在り処を知ったキラウのコタンに戻ってからの行動は早かった。びしょ濡れのナマエの手を引いて殆ど突撃するかのように彼女の父親、つまりコタンの長の所へと向かったのだ。

「ちょっ、キラウパっ!まだ、心の準備とか……っ、」

「俺はもう覚悟は出来てる。お前を失うくらいなら何だって軽いもんだ」

握られていない方の手で心臓を押さえるように胸に手を当てるナマエに、キラウは逸る気持ちを抑えられないとでも言うようにうずうずとした顔で笑う。キラウの素直な言葉にさっと顔を赤らめたナマエの頬の熱を奪うようにその上に唇を落としたキラウだったが彼女には逆効果だったようだ。ナマエは真っ赤な顔をこれ以上赤らめ様が無いくらい余計に顔を赤らめてしまう。漸く彼女の顔の火照りが取れる頃にはあれだけの雨が嘘のように空は晴れ渡っていた。そして遂に二人はコタンへと戻ってきたという訳だ。キラウとナマエの只ならぬ様子にコタンの住人達も皆道を開けていく。そして。

「長!」

「お、お父様!」

殴り込みを掛けるような勢いでナマエのチセの入り口をくぐった二人をコタンの長は全て分かっているとでも言うような顔で迎えた。いざ父親を目の前にするとやはり尻込みしてしまうナマエであったがキラウの手の温度を思い出してそっと握られた手に力を籠める。キラウがそれに呼応するように彼女の手を握り返したのを皮切りにキラウは口を開いた。

「長、ナマエを嫁にくれ。やっと分かったんだ、ナマエを愛していると」

「っ、キラウパ……、」

「前にあなたは聞いた。『ナマエを嫁に取る気があるか』と。あの時の俺は覚悟も無くて応えられなかったけれど、今なら言える。俺はナマエが好きだ。ナマエじゃないと駄目なんだ」

「お父様……!私からもお願いします!キラウパじゃないと嫌なの。私キラウパの事が好きで、だからっ」

キラウの言葉にじわりと滲む涙をそのままに、ナマエも口を開く。しかし言いたい事の半分も言い終わらない内にその言葉はコタンの長の上げた手によって遮られてしまう。表情を凍り付かせるナマエだったが長は、ナマエの父親は鷹揚に微笑むと髭を撫でながら口を開いた。

まずは濡れた服を着替えて来てはどうかね、と。

その言葉で二人は自身の今の恰好を思い出す。二人とも濡れ鼠でナマエは今漸く寒さを思い出して僅かに震えた。キラウは長の言葉の真意を量っているようであったが、結局彼の言葉に渋々頷いた。こうしてキラウとナマエの半ば強引な婚約は長の認める所となり、その噂はコタン中を駆け巡ったのであった。尤も収まるべき二人が収まるべき所に収まっただけの事であったから、コタンの住人たちの反応は驚きと言うよりも納得と言った所であった訳であるが。

しかし婚約したと言っても二人の関係が急に変わる訳でも無く、むしろ以前と変わる事無く、二人の関係は続いていた。以前と変わりなくナマエはキラウの帰りをコタンの入り口で待ち、その後は二人でキラウのチセでナマエが彼の取ってきた獲物で料理をした。だがそれでも二人が抱える感情にはそれまでとは雲泥の差があっただろう。大切な者がいるという事がもたらす心境の変化は。

「お帰り、キラウパ」

「ああ、ただいま」

頬を染めて可愛らしく微笑むナマエに同じく笑みを返していつものように獲物を手渡したキラウは少し迷ってから、彼女の小さな手を取って歩き出す。驚いたように肩を揺らして俯きながらもキラウについて行くナマエを見下ろせば、その顔は見えなくても赤く染まった耳に彼は微笑ましさを隠せない。

「……ナマエ」

「っ、え?な、何……?」

落ち着いた声にも挙動不審な反応を返すナマエに含み笑いをするキラウは何でも無いと言うように首を振って手の内の彼女の華奢な手を握り直す。髪を梳くように頭を撫でられて、気持ち良さそうに目を細めるナマエにキラウも満たされた様に表情を緩める。

「キラウパ、」

「帰ろう、」

小さく頷いたナマエの手を取り直して、キラウは家路を辿る。道中で狩りの間にあったあれこれをナマエに話してやりながら。

「そうだ、お前に渡す物があったんだ」

「……うん?何?」

チセに帰って腰を落ち着けてから、早速キラウの獲って来た獲物で料理を始めるナマエをキラウはぼんやりと眺める。料理をしているせいで少し俯きがちなナマエの横顔を眺めながらじわじわとしたあたたかさに浸っていたキラウであったがふと思い出したようにチセの隅の作業台の方ににじり寄る。顔を上げて首を傾げたナマエの純粋な目に少しばかり心臓の上擦りを感じながら、キラウはそれを誤魔化すように彼女の目の前に突き出した。

「これ、メノコマキリ……?」

「まあ、お守りみたいなものさ」

驚いたように目を見開いたナマエの手に押し付けるようにマキリを握らせたキラウに、彼女は震えるような手つきでマキリの鞘を撫でる。精巧な意匠は一朝一夕で出来る物では無い事が窺えて、それが随分と前からキラウの手で彫られていた事は明らかだった。

「本当はもっと早くに渡すつもりだったんだが、思ったより時間がかかっちまった。悪いな」

「あ、ううん……、凄く嬉しい……!」

本当に嬉しかったのか勢い良くキラウに抱き着いたナマエを支えきれず、うっかり尻餅をついてしまったキラウの背に細くて柔らかな腕がぎゅう、と回る。寄せられた身体からふわりと香る甘い香りは花の蜜か何かなのか、それとも彼女自身の香りなのか。キラウシには判別がつかなかったがただ一つ確かなのはその香りに眩暈のような感覚を味わった事だった。それは多分本能と呼ばれる物で。

「お、おい……ナマエ、」

「好き、キラウパの事大好き……」

「あ、ああ、分かったから……!」

じわじわと胸の内があたたかくなるような感覚と、感情を擽られるように与えられる言葉の数々。愛しい女からそれら全てを与えられてお預けを喰らうのは男として非常に辛いものがあるのだが、どうやらナマエはそれを分かっていないようだと、キラウは心中で嘆息した。しかし物言いたげなナマエの視線がキラウのそれと絡む。それは明らかにキラウからの抱擁を欲しがっていて。

「……っ、」

恐る恐る、と言った様に彼女の背に腕を回したキラウであったがそのせいで余計に密着してしまった身体に、背筋の粟立ちを感じるのを禁じ得ない。このままでは彼女を傷付けてしまいそうなのに、不思議とナマエの下がった目蓋に導かれるように、キラウはその柔らかな唇を奪っていた。ナマエの鼻に抜けるような声が艶めかしく、チセに響くのをどこか他人事のように聞きながら彼は抑え切れない情欲をぶつけるように彼女の唇を貪る。

「っ、ふ……、っん、」

「っは、ナマエ……」

息を継ぐ為の隙間から侵入する舌にナマエが身体を震わせるのですら、今のキラウには情欲をそそる要素にしかならない。いい加減にしないと取り返しのつかない事になる事は分かっているのにそれでもナマエを離せない所が最早彼が彼女に心底惚れ込んでいる証拠だろう。

ナマエもそれを分かっているのか、徐にキラウの首に腕を回すとそのまま流れるように横たわる。ナマエに覆い被さるような体勢は正しく情事の時の物と同じで、知らずキラウの喉は鳴った。

「……ナマエっ、」

「良いよ……、キラウパなら、」

嫣然と微笑むナマエが静かにキラウの着物の合わせに触れる。しかしその手が小さく震えている事に気付いて、キラウは目を覆いたくなった。はあ、と息を吐いてゆっくりとナマエの負担にならないように彼女の上に身体を沈める。戸惑うようにキラウの肩に触れたナマエであったが「すまん」というキラウの言葉にその手は大きく跳ねる。

「なんで、謝るの……?」

「……怖いんだろう」

細かく震える彼女の手を上からそっと押さえたキラウに、ナマエは傷付いたように顔を曇らせる。それから唇を噛み締めて恐怖を誤魔化すように首を振る。

「怖くなんかないよ。キラウパだったら、私、」

「だが震えている」

「これは、寒いだけで」

「今は夏なのに?」

覗き込むようにナマエの顔を見詰めたキラウはぎょっとする。ナマエはその大きな瞳に涙をいっぱい溜めていたのだから。

「お、おい、ナマエ……?」

「っ、怖いよ!でも、キラウパとだったら、」

ぽろぽろと大粒の涙を零すナマエにキラウは怪訝な顔をする。キラウにはどこかナマエが焦っているようにすら見えたのだ。ナマエの身体を抱いて身体を起こしたキラウは彼女を落ち着かせるようにそっとその背を擦った。

「焦るな、ナマエ」

「ん、でも……」

「何があったって俺がお前の事を愛している事には変わりないんだ。夫婦の契りがあろうと、無かろうとな」

そうだろう、と同意を求めるかのようにしゃくり上げるナマエの顔を覗き込むキラウは、それでも少し不安そうな顔をする彼女に気付く。どうやらナマエはまだ納得はしていないようだった。

「でも、キラウパは女の人に人気があって、だから私はいつも不安で……っ」

「ん?そうなのか?」

初めて聞いた話に面食らうキラウであったがナマエはそれには気付かなかったのか、零れる涙を手の甲で拭って言葉を続ける。

「だったら、早くキラウパと一つになりたい……っ、私は、身も心もキラウパの物だって言えるように……」

唇を噛んで俯くナマエはまた涙を零す。それを拭ってやらねばと頭では分かっているのにキラウは動けずにいた。許容以上の感情の揺れを感じて。それは彼の感情を激しく揺れ動かして、本能の部分を揺さぶる。喉を鳴らしたキラウには気付かなかったのか、ナマエは身の置き所が無さそうに縮こまった。

「ごめんなさい、キラウパを困らせたい訳じゃないのに……」

「なあ、ナマエ、」

堪らずナマエの身体を抱いたキラウは彼女の手を取ると己の左胸に宛がう。目を見開いたナマエに照れ臭そうに苦笑いしたキラウであったが彼女の手をそのままに口を開く。

「俺は別に誰でも良いって訳じゃない。俺の心臓が高鳴るのも、抱きたいと思うのもお前だけだ。他人が何と言おうと、関係無いんだ」

自分の物と同じくらいに高く早く打つ心臓の音を手に感じながらナマエは恐る恐るキラウの顔を見詰める。戦慄く唇に触れるだけのそれを落としてからキラウは明後日の方を向いて微妙な表情を作った。

「それに、まあ、何だ。今お前を抱いたら多分、一度や二度じゃ終わる気がしないからな。お前明日もあるんだろう?」

「……っ!」

キラウの言葉に頬を赤らめ目を見開いて硬直するナマエに居た堪れなさを感じながらもキラウは慈しむように彼女の頬を撫でる。頬から肩へ、肩から背中へと回ったその手はナマエを静かに抱き寄せた。近くなったナマエの耳にキラウはそっと口を近付けた。

「愛している」

「……ん、私も、」

消え入りそうなくらいに小さな声で落とされたナマエの返事に柔らかな笑みを浮かべるキラウの顔は残念ながら彼女には見えなかっただろう。それでも彼女の言葉に跳ねたキラウの心臓の音はもしかしたらナマエにも聞こえた、かも知れない。

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