五里夢中

自分のような身の上の女など、大勢いると分かっていた。親きょうだいを喪った子どもが多いことも、その中である程度の歳の女を最も効率良く稼がせる方法がそれである事も。私は「特別」なんかではなく、ただ取り敢えず飢えて死なないだけでも今の私の境遇としては御の字だった。

私を買った店は娼妓たちに最低限の教養を与える店だった。というのも近くに軍の施設があったからだ。士官たちは良い家の出身も多く、知性のある女を好むと考えた主人が他の色を売る店と差を付けるために考案した策だったがそれは存外成功していた。

私たちは頭の良い男たちの言葉に適当な言葉を返せるだけの知性を身に付けるまでは男を宛てがわれる事は無かった。反対に言えば知性を身に付けたが最期、という訳であるが。

私が知性を身に付けたのは売られてから約半年くらいだっただろうか。店の方も慈善事業をしている訳では無いので物覚えの悪い女をいつまでも飼っておく訳にもいかず、ある程度それなりの教養を身に付けたと判断された女たちは皆、写真を撮られ物言わぬ顔は店頭に並ばされた。私が並ばされたのは秋の始まりの終わりかけであった。

覚悟が出来ていた訳では無かった。私は何処かで私の仕込みは永遠に終わらないのでは無いかという可笑しな思いがあった。何処かで私は身体を売らなくても生きられるのでは無いかと。でもそれは違っていたのだ。私は誰の「特別」でもなく、身内を全て喪った私を知っている者ももう誰もいない。私は年季が明けるか死ぬ迄ここで暮らして行くしか無いのだとそう思っていた。

その世界を、音様が壊してくれた。

音様は士官学校を卒業したばかりの新米少尉で、店には先輩に無理矢理連れて来られたというような事を言っていた。言い訳なんて要らないのに、と少し笑えばあからさまに頬を染めるような初心さは私の幼馴染を思い起こさせた。

私は私の「初めて」を奪うのはもっと年嵩の男だとばかり思っていたから、少し怖かった。若い男は加減を知らないというのは姐さん方から聞いて知っていた。

「え、っと……、灯、消しますね……」

そっと揺れる行燈の火を消そうとすると音様は慌てたように首を振った。

「わ、私はお前を抱きに来た訳では無いのだ……!」

「え……、で、ですが、」

「その、話をしたい……。私は鯉登音之進という。お前は?名を何という?」

未通の私が言うのも何だが、この男は初めてなんじゃないかとこの時の私は密かに首を傾げたものだった。女郎屋で馬鹿正直に女に名前を告げる男はきっと珍しい。私が源氏名を告げると音様は不満そうに顔を顰めた。

「……本名が、知りたいのだ」

「お止しになってください……、それは禁じられてますの」

それは嘘とも真実とも言えた。店は娼妓たちに客と深い仲になる事を禁じていた。そして本名を教える事は相手に心を許してしまうきっかけにもなり得る。少なくともこの世界が長い姐さん方は本名を忘れてしまっていた。

「そ、そうか……。では、どうしたら教えてくれる?」

「ええ……?」

店が禁じていると言えば引き下がるかと思ったら音様は全然引き下がる事もなく私の手を握ってきらきらとした瞳を向ける。私が戸惑っていると彼は少し照れたように俯いて口籠もりながら言葉を紡ぐ。

「その……店の写真、を見て、お前の顔を一目見て、私は……、恋に落ちたような気がするのだ」

「……ええ?」

気がする?確定的ではないその言葉に引っかかりながらも私は彼の告白めいた言葉を受け取っていく。

「わ、私はこういう事には不慣れで、その、何と言ったら良いのか……兎に角、お前にこの気持ちが通ずるまでは、お前を抱きたくない」

「え、えっと……」

「取り敢えず……、私の事は『音』とでも呼んでくれ。今夜はお前の事を沢山知りたい」

微笑む音様の純粋な瞳は何も知らない頃の私の瞳のようだった。私と音様はこうして出会った。

***

音様は三日と明けず私の置かれている店へと通った。最初は戸惑っていた私だったが、彼が本当に私を抱く気が無いと分かると何となく次第に彼を兄か何かのように思い始めていた。それくらい、音様は私に優しかった。

彼は店の主人と何か約していたのだろう。私は音様の専属となっていた。運の良い女たちが客の専属となる事は時々あったため、私は私が選ばれた事には驚いたが音様以外の男と目合わされ無かった事には驚かなかった。

「他の男になど抱かせるものか」

専属にしてくれた礼を言えば音様は褐色の頬を薄く染めながらそう言った。それからおずおずと私の肩を抱いて自分の方へ引き寄せる。酷く不器用なその仕草が音様らしくて、私は少しだけ音様の方へ身体を寄せた。音様は私の肩に頭を凭せ掛けると、「好きだ」と何ともなく呟いた。

「あ、あの……音様?」

「好きだ。初めて会った時よりもずっとお前の事が好きだ」

臆面も無く好きだと繰り返す音様の顔は酷く優しくて、私はどうしたら良いのか分からなかった。好きだと告げられる度心は跳ね、肩を抱かれる度に喜びは増していった。それはもう亡い実の兄には感じた事の無い感情だった。それははっきりと恋慕であった。

私が音様の事を本当に好きになるまでに時間はかからなかった。

「あまり深入りするんじゃありませんよ。あの人は良いトコのお坊ちゃんなんですから」

店の主人はきっと私の感情に気付いていたのだろう。いつか音様のおとないを告げに私の部屋に来た時、苦言ともつかぬ言葉を呈した。置屋のいやらしさを打ち消すような慇懃なその言葉遣いは逆に私の首を絞め、呼吸を出来なくさせてしまった。

深入り、深い仲。

私は私が音様の何なのか段々と分からなくなってしまっていたのかもしれない。私は何処かで思い上がっていたのだ。他の男に一度も抱かれる事無く、いつか音様に身請けしてもらえるかも、なんて、あたかもこの逢瀬が永遠であるように錯覚していたのだ。

私から、音様に逢いに行く事など出来はしないというのに。

この逢瀬は最初から、音様本位であった事を私はすっかりと忘れていた。音様が私の事を忘れてしまったが最後なのだ。そしてそれはきっと訪れる。私と音様の世界は違い過ぎたのだから。

「……、どうかしたのか?」

はっ、と顔を上げた時には随分しょぼくれた顔をした音様と目が合った。私の方を窺うように眉を下げる音様は私がまだ「普通」だった時に近所で見た大きな犬を連想させた。私は首を振って誤魔化す。

「何でもないんです、ごめんなさい。昨日夜更かしをしてしまって、」

「……、そう、か」

納得のいってなさそうな音様は俯きがちのまま、私の手を取ってぎゅう、と握る。肌と肌の触れ合いに心臓が音を立てた。

「私は、頼りないか?」

「え?」

「お前の事なら、何でも知りたいと思う。言ってくれ、どんな事でも知りたい」

真摯な瞳が私を見つめる。そのまっすぐな視線が居た堪れなくて、それなのに私は音様の胸の内に飛び込んでいた。

「ど、どうした……!?」

「ねえ、抱いてくださいな。私、音様に抱かれたい」

言いたい事は沢山あったのに、言えたのはそんなはしたない言葉だけで音様の方が困ったように狼狽えていた。

「と、突然、どうしたというのだ?」

「もう、ずっと音様のお気持ち、私に通じていたの」

気ばかり急いて、音様の厚い胸板に手を添える私に音様はわずかに混乱したように眉を寄せる。それから私を宥めるようにそっと私を抱き締めた。

「何があった?」

低い声が耳から、熱い体温が触れ合ったところから、音様の全てが感じられるような気がして、私は泣いてしまわないようにするのが精一杯だった。

「音様は、いつか、私を捨てていなくなってしまうのでしょう……?」

どうしても声を震わせないようにする事はできなくて、出来る限り音様の熱を感じたくて彼の身体に身を寄せる。音様も私の意図に気付いてくれたのか、私を更に引き寄せてくれた。

「何の話だ?私はいなくなりは、」

「嘘、だって音様と私の世界は違うわ。違い過ぎるわ」

震える声には涙が混じって聞き苦しい。ああ、もうこんな事なら余計な情けなどかけずにぽい、と塵を棄てるように私を手切れにして欲しかった。

「……、私は、ずっと、息苦しかった」

不意に音様が小さな声で呟く。その顔を見たいような見るのが怖いような気がして私は音様の腕の中で顔を上げられなかった。

「苦しかったのだ。見えない何かに追い立てられているような気がして、怖かった。息継ぎの仕方も知らずに溺れて逝くような心持ちすらしていた。……お前に逢うまでは、」

ぐ、と音様の大きな手が私の顔を上向かせる。その瞳は酷く優しかった。

「最初はただ、私好みの顔をしているだけだと思っていた。だが、会えば会うほどにお前が私に息継ぎの仕方を教えてくれた。お前が私の手を引いてくれたのだ。そんなお前をどうして捨てる?」

うん?と私の言葉を促すように音様は少し首を傾げる。でも私は何も言えなかった。音様の言葉を信じられないのが少しと大多数は私に一体何が出来ていたのだという思いで。

「お前には、私の気持ちを知って欲しいと思った。お前の肉体を目当てにした訳ではないという事を。……愛しているのだ、なまえを」

「…………!」

それは、私の本当の名前であった。どうしてそれを、という顔をしていたのだろう。音様は得意げに笑って「お前を身請けするにあたって主人に聞いた」と言った。

「み、うけ……?今、そうおっしゃったの」

「ずっとそうしたかった。やっと、皆を説得出来たんだ」

ああ、音様は私が何一つ考えていない中でずっと私の事を考えていてくれたのだ。自分の矮小さに嫌気が差すと同時に抑えきれない喜びが渦となって私を襲って何もかも分からなくなる。

「その、私の許に来て、欲しい。……あ、いや、決して無理強いする訳じゃあないんだ。私の許に来る気があろうと無かろうと、なまえには太陽の下が似合う」

私の感情には気付かないのか、音様は気まずそうに後頭部を掻いて私から目を逸らした。私はもう、迷わなかった。

「その、勝手に名を聞いたりしてすまなっ!?」

「嬉しい……!音様、私すごく嬉しいです……!」

何も考えずに音様に全ての自重を預けてしまったせいで、音様は勢い余って私ごと畳に仰向けに倒れてしまう。慌てて音様の上から退こうとする私だったが、しかし音様に阻まれた。

「私もだ。……なまえが私を選んでくれて嬉しい」

穏やかに微笑む音様は私をそっと彼の大きな身体の下に横たえると、ゆっくりと覆い被さる。遂に、と身を硬くする私に音様は優しく微笑んだ。

「まだ、抱かない。……なまえを抱くのは全てが私のものになった時だけだ。本当は、ちょっとだけ、我慢出来ないのだが……、」

「しなくて良いのに、」

「駄目だ。自分と約束した。なまえを抱くのはこんな、その場の勢いじゃなくて、もっとちゃんと準備したところだと」

「いじっぱり……」

「何とでも言え。勢いで抱いたらきっとなまえを傷付けてしまう。……ずっと、我慢していたから、」

かあ、と赤らむ頬を隠しもせず音様は私に顔を近付ける。私もそれを期待してそっと目を閉じた。

初めて音様とした男女の触れ合いは私の中の色褪せた世界を打ち壊して、これから音様と過ごしていく世界の始まりを感じさせるものだった。

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