「在りし日」と「Psalm127:3」の間
冷たい手、あの頃より幾らもやつれた顔、細い手首、青白い頬。閉じた目はもう二度と開かないのではないかと俺を怖くさせて、傍らでその呼吸を確かめて安堵した。彼女は、なまえさんは、確実に死へと近付いていて、認めたくないのにそれは俺と彼女の暗黙の了解で、俺は彼女を喪う為に毎日を生きて、そして彼女の手を握った。
彼女によく似た子供がすくすくと育つ一方で、彼女は反比例するように生きる気力を失っていった。俺の手を握り返す力は日に日に弱くなり、身体を起こしていられる時間は日ごとに短くなっていった。それでも微笑んで、俺に隠れて青白い顔を化粧で誤魔化そうとするなまえさんを俺は知っていた。今日は調子が良いの、と少し濃い目の赤い頬紅、似合わなくて、少しだけ視界が揺らいだ。
ゆっくりと緩い角度の坂を転がるように、なまえさんの体調は悪くなって、そして遂に恐れていた事実が俺に告げられた。なまえさんの意識は少しずつ低迷して、目を開けていられる時間も短くなって、冷たい手はほんの僅かも動かなくなった。医者に告げられた彼女の残り時間が喪った筈の俺の感情を苛んだ。
ただ、この手を離したくなかった。この手を離して生きて逝ける気がしなかった。彼女がいない世界で息など出来はしないと、そう思った。
「独りにしないで下さい……、俺を置いて、逝かないでくれ、」
声は震えて、噛み締めた奥歯が軋んだ。初夏の爽やかな風が、俺の心中も知らずに俺たちの間を吹き抜ける。心配などさせたくないのに、それでももし、なまえさんが少しでも永らえてくれるのなら、俺はどんなに情けなくたって彼女に縋ってその生を乞いたかった。どうか俺と最期まで、ねえ、あなただけは。
「……、ひゃくのすけ、?」
強く握った手に痛みを感じたのか、ゆっくりとなまえさんの目蓋が持ち上がる。焦点が合わないのか、或いは最早視力も失われているのか俺を捜すように瞳を巡らせるなまえさんの身体をなるべく差し障りが無いように抱き起こしてその身体を強く抱き締めた。離さない、何処にもいかせない。
「……ふふ、いたい、よ」
「いかせない……、どこにも、俺から、離れないで」
子供の時から、俺はあなたを見送るばかりで、あなたはいつも俺を置いていく。ねえ、お願いだから、一度くらい俺の手を取って、一緒に連れて行って下さい。あなたとならどんなところだって、たとえそこが。
「……ねえ、ひゃくのすけ……、」
小さなか細い、でも芯のある声だった。はっとして腕の中の彼女を見たら、なまえさんは微笑んで首を振った。俺の瞳を見て、俺の好きなその優しげな目をやんわりと三日月に歪めて、彼女は俺の首に腕を絡ませると、静かに口付けを強請る。触れた彼女の唇は少し乾燥していて、それに彼女も気付いていたのか少し眉を寄せて苦笑した。
「……あの子のこと、おねがいね、」
小さくて、細やかでまるで世界の誰にも聞こえないような声は俺にだけははっきりと聞こえて、俺は一回りも二回りも小さくなった彼女の身体をぎゅうと抱いた。正直に言って俺は分からなかった。あの子供の事は大切だった。それなのに、俺はどうしてもそれを表現出来ず、気付けば彼はもう、三つを過ぎて俺との距離を測るような表情をした。俺は知らなかった。父親と息子がどのような表情で向き合うのか。何を話すのか、どうやってその愛情を表現すれば良いのか。
「俺は、俺には……、」
「あなたなら、できる……、だって、あなたは……あのこの……、」
おとうさん、
小さな、小さな声はそれきりだった。それでも少しだけ軽くなった彼女の身体にはまだ温もりが残っていて、俺はその身体を頑なに腕に抱き続けていた。彼女の身体を離したら、世界が終わるような気さえした。否、むしろ終わったって良いと思っていた、筈だった。それでも、
「……ちちうえ、」
その声に振り向けない俺は父親失格なのだろうか、でも。俺に手を伸ばしているであろうその子の顔を見てしまったら、我慢していたものが決壊してしまう気がするのだ。彼女によく似た俺の子の顔を見てしまったら。
ねえ、なまえさん、俺に出来るでしょうか。あなたがいなくても、大丈夫だと言えるようになるでしょうか。あなたがいなくても、この子を、あなたの子を、俺の子を。どうか。
コメント