告別、そして未来

ナマエがキラウの狩りの帰りをコタンの入り口で待つようになって早数年の歳月が流れた。つまりキラウはその分歳を取り、ナマエもまた「大人」へと成長しつつあったという訳だ。その数年が彼らにとって特別何か大きな変化をもたらした訳では無かったが、それでも確かに、二人の抱える感情は変化しつつあったと言って良いだろう。

「お帰りなさい、キラウパ」

キラウの足音を耳聡く聞きつけて振り返り微笑むナマエの眩しい程の表情に、キラウは目を細めて頷く。コタンの同年代の少女たちの中でも一、二を争う美貌に成長したナマエは今やどこからどう見ても「女」で、かつてキラウの狩りについて行きたいと駄々を捏ねていたお転婆はまるで鳴りを潜めていた。

「お前も物好きだなあ。俺みたいな男よりもお前が待つべき相手は他にもいるだろうに」

苦笑しながらキラウがやんわりナマエを咎めるのもいつもの事だった。キラウとて別にナマエが嫌いな訳では無い。むしろ幼い頃からずっと慕われてきていた分、情だってあるし、更に言えばもし本当に彼女が他の男を待つようになったら面白くない。ただそれでもそれを面と向かって言うのは今更気恥ずかしいし、体面もあった。そしてナマエもいつものキラウの忠告に微笑んで応えるものだと彼は思っていた。しかし。

「ん……、そうかな……。……キラウパは、私が他の男の人と一緒にいる方が良いって思う?」

ナマエは長い睫毛を伏せて、静かにそう返した。それは酷く悩んでいるような、そしてその悩みに望まない答えを一方的に与えられたような、そんな顔のようにキラウには感じられた。ナマエの普段とは違う反応に怪訝そうな顔をするキラウであったが、ナマエは彼のその雰囲気を感じ取ったのか途端に無理矢理とも言える程に表情を明るくして爛漫に微笑んだ。

「何でもない!私がキラウパの事を待ちたいから待ってるだけだし、それにキラウパにはチセに帰っても待ってる奥さんもいないから可哀想だもん!」

「お前なあ……」

憎まれ口にむっとした顔を作りながらも、彼女の言葉で本心なのは前半だけだと知っているためキラウは耐え切れずにすぐに顔を緩める。ナマエもその顔につられるように微笑んで、キラウの後をついてコタンに入る。それでもキラウは気付く事が出来なかった。キラウの後ろを歩く彼女の表情が物思いに耽るように沈んでいる事に。

チセに帰って他愛も無い話をしながらナマエが自分のために料理を作るのを眺めていたキラウだったが、ふとナマエの手が止まっている事に気付いて声を掛けた。ナマエ自身その事に気付いていなかったようで驚いたように目を丸くしていたため、キラウは少し感情に嫌な靄のようなものがかかるのを感じて手を握り締めた。

「ナマエ?大丈夫か?調子が悪いのなら……」

「あ、ち、違うの。大丈夫、ちょっと考え事してただけ……」

「悩み事か?俺でよければ聞くが」

「う、ううん……!大丈夫!全然何でもないから!」

明らかに何かを隠している空元気が痛々しくて、怪訝そうにナマエを見つめるキラウに彼女は居心地が悪そうに俯いて膝の上で手を握り合わせる。それはナマエが昔から言いたくて言い出せない事を溜め込んでいる時にする仕草だとキラウは知っていた。だからこそ、彼は静かにナマエの隣に移動するとその両手に己の手を重ねた。

「っ……!」

驚いたように手を引こうとするナマエだったが、それも一瞬で彼女の両手はぎこちなく自身の膝に戻される。片手で握れてしまうナマエの両手に改めて彼女の女性性を思い知りながら、キラウは気遣わしげにナマエの表情を窺った。

「何か、あったのか?」

「な、何も……無いよ、ただ……、」

「ただ?」

俯いて言葉を探すように押し黙るナマエの言葉をキラウも辛抱強く待つ。ナマエが漸く紡ぐべき言葉を見つけたのはそれから数分程経過した頃だった。

「さっきの、話……。もし、私かキラウパが結婚しちゃったら、こうやって一緒にいる事も出来なくなるなって、思ったら……ちょっと寂しくなって……、」

自分で言っていて居た堪れなくなって来ているのか、言葉はどんどん小さく揺らいでいき、ナマエの顔も泣きそうなものに変わっていく。キラウはというとなんと言って良いのか分からなくて、言葉に詰まっていた。ナマエの言葉が余りに予想の斜め上過ぎて。

「ごめんなさい……、今日の私はおかしいみたい……」

「い、いや……、それは、」

滲んだ涙を拭うように手の甲で目許を拭ったナマエにキラウははっきり言って動揺していた。なぜナマエがこんな思考に陥ったのかは判然としなかったが、それでも彼女の口から曖昧とは言えキラウとの関係の終わりを意識させるような言葉が落とされたのは初めてだったからだ。

しかしだからと言ってキラウはその場しのぎの言葉をナマエに与える事も出来ず、実に居心地の悪い気まずい沈黙が辺りを支配する。それでも何故か握ったナマエの手を離すことは出来なくて、キラウは何も言えない自分に歯噛みするだけであった。そんなキラウの様子を悟ったのだろう、ナマエはまた無理に微笑んだ。

「キラウパ、あのね」

沈黙に落とされた言葉は不自然に揺らして、チセの空気を攪拌させる。ナマエの言葉を待つキラウに、彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。

「私ね、結婚、するんだって」

静かなチセに雫が落ちるように、ナマエの言葉は転がった。何となく、予想していた流れではあったがそれでもキラウには殴られたような衝撃が走る。息が詰まるような、身体中の血液が下に落ちていくようなそんな衝撃が。何も言わないキラウにナマエは精神的動揺を隠せないのか唇を噛んで、思い詰めたような表情でキラウの顔を見つめた。それは何もかも捨ててしまいそうな、そんな自棄を起こしそうな表情で。

「だから……、だからね、お願いがあって、」

「……良かったじゃないか」

「え……?」

キラウはそれだけを呟くのが精一杯だった。それなのに彼の「大人」の部分、或いは「体面」が残りの言葉を補完する。ナマエの凍り付いたような表情からは目を逸らして。

「良かったじゃないか、ナマエ。なんだ俺より先にお前が結婚なんて、分からないものだな。ほら、そうと知ったらこんなところにいるんじゃない。いらん噂を立てられるぞ」

「大人」として握った手を離すのが正解なのだとキラウは信じていた。たとえもう二度とナマエと触れ合えなくても。ナマエが幸せになって、いつか彼女によく似た子どもに今度こそ狩りを教えてやれればそれで良いのだと、キラウは本気で思おうとしていた。それなのに、ナマエはその感情の邪魔をする。

「……良いよ、キラウパとなら」

キラウが離そうとした手を強く握って引き寄せたナマエはほとんど無理矢理彼の手を自身の胸元に当てる。柔らかな感触の奥から、ナマエの心臓の音が聞こえてキラウは喉を鳴らすのを抑えられなかった。それでも握られたところから感じられる彼女の震えはキラウには如実に伝わってきて、彼は彼女が傷を負わないように、それでも明確にその手を引き剥がした。

「ナマエ……、冗談は止めろ」

「冗談じゃない……!」

「じゃあ、一時の感情で馬鹿な真似は止めろ」

「っ……!」

ナマエの顔が悲痛に歪んだって構わなかった。今ここで自分との間にあらぬ噂が立つ事の方が問題なのだと、キラウは自分自身を納得させる。でなければ、本当に。それは一時の感情ではなかったけれど、馬鹿な真似をしでかしそうなのはキラウも同じだった。

傷付いたような顔でキラウを睨むナマエの瞳から一筋零れた涙をキラウは拭わなかった。それが正しいと信じていたから。

「……キラウパが、こんなに憶病だって、思わなかった」

去っていく彼女が残していった言葉に揺らいだ感情を見て見ぬふりして。

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