告別、そして未来

それから、キラウが何度狩りに出ようとナマエは一度も彼をコタンの入り口で迎える事は無かった。それどころか普段の生活の中でも顔を合わせる事も無くなっていた。ナマエの友人に聞けば、どうやらあの日以来彼女は自分のチセに篭ってほとんど外に出なくなったと言うのだ。あれだけ明るかった彼女が、と不思議がる友人たちにキラウはどこか他人事のように礼を言ってそして人知れず拳を握り締めた。これで良かったのだという思いと、これで良かったのかという想いを抱えながら。

それでも日々は過ぎていく。それは彼女と顔を合わせなくなってから幾許かの日が経った頃だった。コタンは俄かに騒がしくなった。キムンカムイを見たという戦士たちの噂に前後するようにナマエの姿が消えたという事実に。

「ナマエが……!」

その話を聞いた時、キラウの脳裏に過ぎったのは惨劇だった。手練れの戦士だってキムンカムイに殺される事があるのに、況してやナマエは銃も持っていない戦う術など何も無いただの女で。あの可愛らしくてくるくると良く動く表情が、冷たい死人の表情になるところを想像してキラウは確かに恐怖を感じた。それは強い獲物を前にした恐怖とは違う、もっと自身の根幹を揺らすような恐怖だった。

すぐにもキムンカムイとナマエ両方の捜索隊が組まれ、キラウは一も二も無くコタンを飛び出した。見上げる空は今にも泣きだしそうな曇天で、キラウは焦りを孕む顔に僅かに苦笑を零した。まるで己の感情を表したような空模様に。

正直に言ってキラウは自分が捜せばナマエの居場所くらいすぐに見つかるものだと思っていた。いくらナマエにお転婆の要素があったとしても、彼女は女で山には浅い部分にしか入った事が無い。深い山は危険で、絶対に入ってはいけないと彼女はきつく言い付けられていたからだ。そして自分はナマエの事を一番に知っているという自負が、キラウにはあった。しかし。

(クソ……、)

予想に反してナマエの姿は影も形も見えない。成果の上がらない時間だけが経過し、何度か他の仲間とも情報を共有したがやはり結果は変わらなかった。ナマエもキムンカムイもその姿をちら、とも見せなかった。

そうこうしている内に重く垂れこめた雲は均衡を崩し、一つまた一つと雫を零し始める。雨の中の山は足場も悪く人捜しにも狩りにも向かない。その判断がなされ、捜索隊は一人また一人と引き上げていく。そしてキラウだけが残った。

(こんな所で、引けるか……!)

最早キラウにとってキムンカムイなどどうでも良かった。今はただ、ナマエの事だけが彼の頭を占めていた。この山のどこかで膝を抱えて雨に打たれているであろうナマエの事が。早く見つけてやらなければ風邪を引いてしまう。そして、彼女を見付けたら。

(馬鹿じゃないのか、今更……)

自嘲めいた笑みと共に、キラウは浅い山の更に奥、深い山に分け入って行く。ずっと狩りをしてきたキラウですら、雨の山には余り入りたいとは思わない。それでも、その先にナマエがいるのなら、どうなったって構わなかった。濡れて重くなる服が体力を奪っていくのを感じながらキラウは生い茂る葉を掻き分けて進んでいった。

***

幾らか深い山に分け入ったキラウは唐突に開けた場所に出た。そこは長い間山で狩りをしていたキラウも知らない場所で、枯れた倒木が雨避けになっていた。そして彼女はそこにいた。

「っナマエ!!」

「……、キラウ、ニパ……?」

大股で足早に、ナマエに近付くキラウを彼女はぼんやりと見つめていた。雨に打たれて冷えたのか蒼白な顔は生気が感じられず、そしてずっと泣いていたのだろう目は赤かった。

「っ馬鹿かお前!何でこんな所にいるんだ!?心配するだろう!!」

「っ、」

初めてナマエを大声で怒鳴ったなあ、とキラウは回らない頭の片隅で他人事のように考えていた。どうしてか、己の意識が己の身体の外側に行ってしまったような感じがした。つまり理性が本能に締め出された。気付いた時にはキラウは己が腕の中にナマエの小さな身体を閉じ込めていた。その存在を確かめるように。

「キラウパ……、」

「怖かった……、お前が、いなくなったらと思ったら……」

「……ごめ、なさ、」

ナマエを見付けたら言いたい事が山ほどあったのに、実際に言えたのはただの弱音みたいな本音でキラウは顔を歪める。ナマエもいつもと違うキラウの様子に彼の本心を見たのか震える声で謝罪の言葉を落とした。それを確認したキラウはそっとナマエから身体を離すとぎこちなく微笑んだ。

「……帰ろう。随分冷えて、このままじゃ俺もお前も風邪を引く」

立ち上がって、ナマエを庇うように彼女を立たせようとして、キラウは彼女が拒むように己の手を引いた事に気付く。視線を落とせばナマエは硬い表情で唇を噛んでいた。

「嫌……、帰らない……、」

「ナマエ、何を言って……」

「私帰らない!帰ったって、もう、キラウパとは一緒にいられない……!」

ナマエの頬を雨粒とは違う雫が伝っていく。ナマエは立ち上がると、立ち竦んだままのキラウの身体に腕を回す。冷たくて、柔らかな身体は震えていて、キラウは一瞬何もかも忘れて彼女を抱き締め返す想像をした。

「好き……、キラウパが好きなの。キラウパじゃないと嫌なの……!お願い、私をどこかに連れて行って……!」

「ナマエ……、」

思い詰めた瞳はあの日と同じだった。キラウが遮った先にはこんな言葉があったのだと、キラウは今更ながら項垂れた。良かれと思った行動が、ナマエを追い詰めていたと気付いて。そして、ここまでされないと自身の事に気付けない己にも。

そっと、ナマエの眦に浮かぶ温い雫を親指で拭ったキラウは、徐に彼女の背に腕を回す。先ほどと同じようにきつく、きつく、しかし今度は離さないとでも言うように。

「お前が結婚すると聞いた時、語弊はあるかも知れないが俺はそれでも良いと、思ったんだ」

「…………、うん」

考えながら言葉を紡ぐキラウの訥々とした語り口にナマエは小さく頷く。ナマエの耳許で拍動を繰り返すキラウの心音を聞きながら。

「だって、お前はいなくなる訳じゃない。たとえ、一緒にはいられなくなったとしても、俺はお前が幸せになるのを見る事が出来るから」

ナマエが何も口を挟まない事がキラウにはありがたかった。今何か問いかけられでもしたら、本当に言いたい事を失ってしまうような気がしたから。キラウは更に言葉を紡ぐため、小さく息を吸う。

「でも、お前が消えたと聞いた時、俺は、お前を喪う事が本当に怖かった。永遠にお前を喪うくらいなら、命なんて要らないと思った。お前を望まない結婚で喪うくらいなら、…………俺はお前を奪ってしまいたい。この世の何ものからも」

「え……、」

驚いたように顔を上げたナマエの視線の先にはキラウの顔があった。彼は険しい顔で唇を引き結んでいた。葛藤露な顔にナマエは目を丸くする。

「あの、キラウパ……、」

「誰にも渡したくない。俺よりお前に相応しい男は他にいると分かっていても」

ナマエの身体を抱き込むように両腕に力を籠めるキラウにナマエはキラウの顔を見ようと身を捩る。そしてキラウの心臓の上辺りにそっと手を置いた。

「相応しいって、何?私はずっと、お嫁さんになるならキラウパのお嫁さんが良いって思ってたよ。私こそ、キラウパには相応しい?」

不安げに、それでも美しく微笑むナマエは、キラウにとって最早一人の女性であった。心臓を握り締められたような感覚に陥って、顔を歪めるキラウだが強く首を振る。

「相応しいって、何だ?……お前は、ナマエは俺にとって今も昔も特別な存在だ。それ以外に、何か必要なのか?」

「……!ううん……!必要ない!それで、それだけで良い……!」

雨の日の晴れ間のようなナマエの顔にキラウは微笑む。同じようにあれだけの曇天が嘘のように雲の切れ間から覗く太陽が差し込んでナマエの顔をきらきらと照らした。キラウシはこれ程までに美しい光景を見た事は無いと、ふと思った。

「お父様は、許してくれるかな……」

不安げにキラウの胸に額を寄せるナマエにキラウは笑った。今ならもう、何も怖くはないから。

「許してくれなきゃ、逃げるだけだ。言っただろ?奪いたいくらい愛していると」

「えっ、そこまでは言ってないような……?…………でも、嬉しい」

はにかむように笑うナマエにキラウも微笑んで、それからそっとナマエに顔を寄せる。少し驚いたように顔を引くナマエもキラウの意図に気付いて、静かに目蓋を下ろした。触れ合う唇は告別にも似ていたのだろう。二人の今までに対する告別に。

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