嫁入り前

私がその家に嫁ぐ事が決まった時、両親はとても喜んでくれた。こんな貧しい家から、とても裕福な家に娘が嫁ぐのだからそれは当然だろう。私も本当は、喜ぶべきなのだと思う。今まで沢山迷惑をかけてきた両親に、漸く楽をさせてあげられるのだから。でも、私は素直に喜ぶ事は出来なかった。顔も知らない男の人の許に嫁ぐ事に不安があったし、それだけではなく、「彼」の事があった。

いつも彼が昼寝をしている川縁の大きな木の影にはやはり百之助の姿があって私は彼に駆け寄る。彼も私の足音には気付いていたみたいで、煩そうにしながらも起き上がって私の方に向き直ってくれた。

彼は名を尾形百之助という。私の家の近所の老夫婦と一緒に暮らしている青年で、村では少し近付き難い雰囲気を醸す男だった。そんな青年とどうして私が仲良くなったのかというと、本当に偶然が重なっただけだった。私が山菜を取りに山に出かけて誤って足を捻って帰れなくなっていたのを彼が助けてくれたのだ。

今まで彼の本質を見ようともせず、噂を信じてきてしまっていた私に彼は優しくしてくれて(百之助はそうだとは絶対に言わないけれど)、それ以来私は彼の姿を見る度声を掛けていた。

最初は無視もされていたが、めげずに声を掛け続けていると、次第に彼の方から声を掛けてくれるようになり、いつの間にか私は彼に仄かに想いを寄せるようになっていた。勿論言葉にした事は無かったけれど。

だからこそ、だろう。私がこの縁談を手放しで喜ばしく思えないのは。本当は、私は。

そんな想いがきっと百之助にも伝わったのだろう。彼は怪訝そうな顔でこちらを見た。

「どうしたんだ」

俯く私の顔を覗き込むように、百之助は私に身体を寄せる。乱暴だとか悪い人間と付き合っているとか、皆百之助の事を悪様に言うけれど私は知っている。百之助が私に向けてくれる視線が本当に優しい事を。私に触れる時、百之助がいつも私を驚かせないようにそっと触ってくれる事を。こんなにも優しい百之助と、私は本当は一緒になりたかった。

「あの、ね。私もう、此処には来られない……」

意を決して告げた言葉は妙に間の抜けた声で二人の間を漂った。百之助は意表を突かれたような顔をしてから不機嫌そうに目を細める。

「それは、俺とはもう付き合わねえって事か?」

百之助に事実を突きつけられて言葉に詰まる。本当は首を振ってしまいたかった。首を振って、彼の手を取って、一緒にこの村を出てしまいたかった。それでも、その決断は、私には重過ぎた。

「あの、それで、もう、聞いているかも知れないけど、私……け、結婚、する事に……」

言葉は最後まで言う事が出来なかった。百之助がどんな顔をしているのか、見るのも怖くて俯いたまま、私は彼の言葉が落ちるのを待った。でも出来る事ならば、時が止まって仕舞えば良いと思った。たった一瞬の間だったのに、それが何分にも何時間にも感じられて、私はただひたすらに視界に映る雑草の葉の数を数えていた。裁きを待つ罪人か何かのように。

「そうか」

裁きはたった一言だった。信じられなくて、顔を上げれば、そこにはいつもの通りの様子の百之助がいた。彼は詰まらない話を聞いた後のように気怠げに欠伸をすると、もう一度「そうか」と言ってそれから木の幹に身体を凭せ掛けた。

それは実に呆気無い返答であった。私はもっと彼が驚いたり慌てたりするのを少し望んでいた。私との時間が終わりになる事に彼が動揺してくれればと。

「そ、それ、だけ……?」

百之助の返答にこちらが動揺してしまって、ついそう聞き返す声は震えていた。鼻の奥がつん、と痛い。泣きそうになるのを堪えながら私が聞けたのはそれだけだった。

「興味が無いんでな」

「っ……!」

雷に打たれたような衝撃だった。この想いは完全なる私の一方的な想いだった事が証明されて。私だけだったのだ。毎日、百之助に会うために胸を高鳴らせて、彼に気付かれるようにわざと足音を立ててこの木に近付いていたのは。

零れそうになる涙を何とか堪える。最後くらい、笑った顔を百之助に覚えておいて欲しかったから。

「そっか……、あの、今までありがとう……。私あなたの事、」

この際だから、想いも伝えてしまいたい。そんな欲が働いて、私はつい、話さなくても良い事まで話してしまう。それなのに、私の想いを遮るように、百之助の骨張った指が私の唇を押さえた。

最後なのに告白もさせてくれないのか。自然と強張る顔に百之助は笑った。何が可笑しいんだろう。今更ながら訳が分からなくて我慢していた涙は何処かに引っ込んでしまう。

不敵とも言えるその笑みに私は縫い付けられる。百之助が口を開くのが見えた。

「お前の相手になんか興味ねえよ。お前は俺と一緒になりたいんだろ」

「っ……!」

絶句する私の両頬を手で挟んだ百之助は私の額と彼のそれを合わせる。百之助の顔が一気に近くなって心臓が高鳴るのが分かる。至近距離で百之助は更に口端を緩める。

「選べよ。俺かそいつか。……何もかも、捨てられるならな」

その声にきっぱりと否を告げられない時点で、きっと私は彼に囚われている。

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