致死的愛慾

初めて見たのは父と話すその横顔だった。普段は仏頂面の父が随分とにこやかに話しているから、いったい誰と話しているのだろうと思って見に行ったのだ。それが私が彼を、尾形百之助を見た初めての時であった。にこやかな父とは対照的に、尾形百之助は何を考えているのか分からない爬虫類のような目をして父の言葉に静かに頷いていた。私の父に対してそのような態度を取る人間の珍しい事もあってその横顔は私の心の中に強烈な印象として残っていた。

自分で言うのもなんだが、私の父は所謂名士というやつで比較的裕福な暮らしをしていたために、我が家にはいつも父の援助を乞う人間が訪れていた。しかしながら父は偏屈を絵に描いたような人間で来る人来る人全てを追い返していたのである。そんな父が連れて帰って来たのが尾形百之助という男であり、家の者が驚いたのも想像に難くないだろう。

何があったのかは知らないが父は尾形百之助という男をいたく気に入ったようで、安い下宿先を探しているという彼の願いを二つ返事で叶えてしまったという訳だ。

「なまえ、今日から家で世話をする事になった尾形君だ。失礼の無いようにしなさい」

「……どうも」

父の紹介を背景に暗闇の向こう側から聞こえるような感情の見え難い声で私に会釈する彼を見る。昏い瞳は何を考えているのか分からなくて、申し訳程度に作られた表情は実に嘘臭かった。これを読んでいる人にはもうお分かりであろう。私は尾形百之助という男が酷く苦手であった。

しかし私の彼に対する嫌悪感は兎も角として尾形百之助は私や私の家族に実に慇懃に振る舞った。時として無礼な程に。

「お出掛けですか、なまえさん」

女学校の友人とミルクホールに出掛けようとして広間に繋がる階段の踊り場で尾形とすれ違う。彼はいつもの何を考えているのか分からない瞳で私を見て、それから精巧に作られた笑顔の表情を私に見せた。その顔を友人も女中も母でさえも魅力的だと言う。しかし私にはその笑みが何か恐ろしい事の前触れのような気がしてならない。その完成された笑みは尾形のどす黒い本性を覆い隠すベールなのではないかと思えてならないのだ。

「……ええ。お友達と少し、」

当たり障りのない返事にも尾形は笑って「暗くなるまでには帰らなければいけませんよ」と言う。恐ろしくて堪らなかった。

「……行ってきます」

そそくさとその場を後にする私であったが、何の気無しに振り返って後悔した。尾形百之助は未だに踊り場に立っていた。気怠そうに手摺りに身体を預けて、私の方をじっと見ながら。その視線の不自然な程の強さに気圧されて体裁も碌に考えずに再び前を見て、なるたけ早足で歩いてその場からはなれようとする私を見て尾形は何を思ったのだろう。私は恐ろしくて堪らなかった。

「貴女考え過ぎだわ」

ミルクのお供に頼んだシベリヤを頬張りながら彼女は言った。楽観的な性格の私の友人は、私のこの名前の付けられない不安を理解する事が出来なかったらしい。彼女は傍らのミルクカップを無造作に手に取り喉を潤すともう一度「考え過ぎよ」と笑った。

「だって尾形さんはあんなに素敵な殿方なのよ。そんな人が何か悪い事を企んでいるなんて、そんな事ある訳無いじゃない」

「……そうかしら」

手許のカステラをフォークで弄びながら私は行儀悪く頬杖を突く。頭の中にあるのは腹立たしくも尾形百之助の事ばかりであった。何が嫌なのか分からない。それでも私の中には確かに尾形百之助に対する嫌悪があって、理由がわからない分その嫌悪を解す事は簡単ではないように思えた。

「一度腹を割って話をしてみたら良いじゃない。『食わず嫌い』という言葉もあるのだし」

無責任な親友の言葉に曖昧に頷いて、私はカステラをフォークで切って口に運んだ。甘いはずのカステラは何故か殆ど味がせず、口の中の水分を奪うだけであった。

***

玄関をくぐった時、気配がして振り向いて心臓が跳ね上がるような心持ちがした。尾形百之助が立っていた。

「尾形、さん。……お出掛けですか?」

咄嗟に言葉が出た自分を褒めてやりたい気分だ。尾形は不自然に動揺したように目を彷徨かせる私に気付かなかったように綺麗に微笑むと首を振る。

「いいえ、なまえさんがあんまり遅いので、迎えに行こうかと」

「まあ、そんな事しなくて良いのに……。貴方は家の使用人ではないのですから」

「ははッ、俺がそうしたいと思ったのですよ。それとも、ご迷惑でしたか?」

腹の中を探り合うような会話が酷く息苦しい。相変わらず尾形は人好きのする笑みで私を見つめ、それからふと気付いたように私に近付くと私の肩にふわりと肩掛けを纏わせた。

「もう家の中に入ってしまいますが。その間に風邪を引いてはいけませんからね。……手もこんなに冷たくして」

咎めるように眉を寄せて、それから当然のように私の手を取った尾形に驚いてしまってぱっとその手を払ってしまう。守るように自分の手を握る私に驚いたように目を開いた尾形はそれから少し慌てたように一歩私から距離を取った。

「すみません。馴れ馴れし過ぎましたね」

「……っ、いいえ。大丈夫です。驚いただけですから……」

変に意識してしまって尾形の顔を見れず、斜め下を見てしまう私に尾形は私の顔を覗き込むように僅かに膝を折った。

「無礼を謝ります。……しかし俺が貴女の事を心配しているのは本当です。どうかそれは忘れないで欲しいですね」

その瞳に宿る色が何一つ感情を持たない事が恐ろしい。ある意味ではその瞳に欲や悪意の一つでも浮かんでいる方がまだ、尾形という男への対応を確定させる足掛かりになるというのに。

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