いつか世界が終わっても

夕張に戻ってどれだけが経ったろう。今でも兄さんは帰ってこない。分かってはいるけれど、それは少し寂しい事だった。私は本当に独りになってしまったのだなあと時々、眠れないベッドの中で独り言ちた。

旅行には、まだ行けていない。兄さんが帰ってきたら、とついつい先延ばしにしていた。剥製所も焼け落ちてしまっていて、暫くは野宿か放浪かと覚悟していたら子守の手伝いをしていた家の奥様に、住み込みで働かせて貰える事となった。

曰く私が急に居なくなってしかも剥製所も焼け落ちてしまったからとても心配していたのだそうだ。両手を握られて、涙ながらにそう言われて、私はどうしてなのだろう。急に涙腺を破壊されてしまったのだ。

兄さんは、また私を守ってくれた。

いつか月島さんが教えてくれた、兄さんと月島さんのやり取りが、その時確かに私の中に甦っていた。

それから私は生活を立て直すために懸命に働いた。必死だった。ともすれば、思い出しそうになる兄さんとのさいごの会話を頭の隅に押しやって。ただ目の前の事をこなした。それこそ、「普通」の女みたいに。

月島さんの事も、少しだけ思い出して、また忘れた。だって彼はきっと私の事なんて忘れていると思ったから。起伏の多そうな彼の人生にたった数週間存在しただけの私が今でも彼の心の内に存在しているとは、どうにも思えなかった。

それでも、どうしてだろう。時々無意識に足が向いてしまうのだ。何もかも焼け落ちた剥製所へ。私たちの全てがあった「そこ」に。「もしかしたら」その期待は誰に対しての物なのだろう。

「誰も、いないね」

九代目の家猫は難を逃れて野生化したのか、近くの茂みから仔猫を連れて時々現れる。足許に纏わりつくそれらを踏まないように躱しながら、私は静かに剥製所の玄関があった所まで近寄る。

外枠は何とか無事だったようだけれど、それでもいつ崩れるか分からないその不安定さはまるで私みたいだった。

本当は、限界だった。この世にたった独りきりなのは。孤独には慣れていると思っていた。でも違った。前は兄さんが、傍にいた。

「にい、さん……」

そっと、焼けた柱を押してみる。嫌な音を立ててそれは傾いでいく。このくらいの力では倒れはしないだろうけれど、倒れたら怪我をしてしまうかもしれない。どうだって、よかったけれど。

傾ぐそれをただ、見つめていた。動けた筈なのに、何故か動けなくて時間が凄くゆっくりになっているように見えた。嗚呼、怪我しても、死んだって。

「なまえ!」

「っ!?」

ぐ、と強く身体を引かれる。意思とは反対に身体がその場から離れて、硬い感触を背中に感じる。それだけじゃない。この、煙草の香りは。

「つ、きしまさん……?」

まるで壊れた仕掛け玩具のようにぎこちなく振り向いた私を至近距離で睨むのは本当に、月島さんだった。

「何してるんだ!」

「え、あ……、なん、でしょう。家、壊して……?」

何を言っているのかよく分からない。それよりも衝撃の方が強くて。だって、月島さんが。何故?夕張に?どういうこと?

「というか、なんで、ここ、に…………」

「は!?……っ約束しただろう」

理解出来ない言葉を吐かれたかのように、顔を歪める月島さんの言葉を反芻する。約束、約束、やく、そく……。

「え……、ほ、本当に……?」

確かに、約束はしたけれど。それは。

「その場凌ぎだとばかり……」

つい溢れた言葉に不機嫌さを隠しもしない様子の月島さんにどのような表情をしたら良いのか分からない。だって、あんな約束。

「っ、君は……っ」

上手く言葉が出ないのは、きっと月島さんも同じだったのだろう。私たちはお互いに、何とも言えない不可思議な顔をしながら、ただ見つめ合っていた。

どのくらい、時間が経ったのか正確には分からなかった。足下から柔らかな九代目の鳴き声がして、ふと意識が現実に引き戻された。

月島さんは甲斐甲斐しく私の近況を聞き、私が日々をそれなりに過ごしている事を知って酷く安堵したような顔をした。

「月島さんは?」

「……?」

「全て終わったの」

ふと、繋ぎで問うた問いに彼は目に見えて顔を暗くした。その問いが彼にとっては禁忌だったのは明白だった。それなのに、彼は薄く笑った。

「ああ。終わった。……何もかも」

希望ではない。でも絶望でもなさそうなその表情はあの夜の表情にとてもよく似ていた。聞いた割に何と返せば良いのか分からず曖昧に頷いた私に月島さんは僅かに言い淀むように逡巡してから、また口を開く。

「君に、謝らなければならない」

その後の言葉はきっと、私を解放するものだろう。何となく分かる。そしてそれを伝えられてしまったら、私と月島さんとの繋がりは途切れてしまうのだとも。

「……ねえ、月島さん」

遮る言葉はするすると口から溢れた。出端を挫かれて微妙な顔の月島さんに微笑んでみせる。上手く笑えただろうか。

「兄は、もう帰ってこないんでしょう」

見開かれた目が苦しい。知ってたよ、そんな事。でも、言ってくれなかったあなたの優しさも、同じくらい苦しい。

「それ、は……」

せめて終わりくらい綺麗でいたかったのに。どうしたって涙が溢れてしまう。薄々分かっていた事だったけれど、それでも。見ないフリをしていただけで本当はずっとそればかり考えていた。後から後から溢れてくる涙を無骨な手が拭っていく。

止まらない涙を彼はずっと拭ってくれる。何度も何度も頬を辿る指が、少し擽ったかった。静かな言葉が与えられる。

「…………君さえ、良ければ。俺と来ないか」

心が揺らいだ。それは私にとっては心惹かれる物である事は間違いがなかった。でも、月島さんの問いに頷くのは兄を捨てる事と同義だ。たった独り兄を夕張に遺して。

「私は、兄を」

罪悪感が言葉を生む。それは私の本心なのか。私にもよく分からない事が月島さんにも伝わっているようだ。彼の顔は苛立たしげに歪む。

「もう、良い。もう止めろ。良い加減、解放されてくれ……!江渡貝が何のために……っ」

それ以上言葉にならないのは二人とも同じだった。ただお互いの熱を近くに感じて私たちは二人きりだった。二人、だった。

「私、ずっと独りだと思ってました」

不意に言葉が浮かんだ。それは今まで抱えていた思いとは矛盾する物だったけれど、それでも確かに今、感じた事だった。私に会いに、ここまで来てくれた月島さんの熱を感じたこの瞬間に。

「でも、違ったんですね。……月島さん、私の事忘れてなくて、私、独りじゃなかったんだ」

呆気に取られたような月島さんの顔が少し面白い。心は、決まった気がした。

「私、此処に残ります」

落胆したような月島さんの表情が、少しだけ嬉しかった。少しは私の事想ってくれていたのだろうと知って。でも、私の想いはきっと月島さんが思う程、消極的な物じゃない。

「そして時々旅行するの。まずは北海道を廻るわ。……月島さんの所にも、今度は私が会いに行くから」

「っ……」

くしゃ、と歪むその顔はどういう意味を持っているのだろう。分からないのに、何故だか心はとても軽くて、いつか私の世界が終わっても、きっとこの感情だけは忘れられないんだろうなとそう、確かに思った。

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