きみの身体全体

アトリエの端々に目を配る。余計な物は落ちていないか、醜い物はないか、「彼女」が気に入りそうな物があるか。それから深呼吸を2回。高鳴る鼓動が外に聞こえないか耳をそばだてる。そうしたら、空飛ぶタクシーの羽ばたきが聞こえた。

「っ、」

震えそうになる手を握りしめる。間抜けなチャイムの音に急きそうになる足を極力押し留めて、コルサは鷹揚に見えるようにドアを開けた。

「先生!また来てしまいました」

ふんわりと美しく笑う女性は名をナマエといった。テーブルシティに住むコルサのパトロンの娘だ。かつてのコルサはパトロンなどどうでも良いと思っていたのだが、やはり芸術には金がかかる。駆け出しで食うにも困っていたコルサの才能を見出し、全面的な支援をしたのがナマエの父であったという訳だ。

ナマエの父は芸術をとても愛していた。それは美しいものに対する崇拝にも近い。当然ナマエにもその血は受け継がれ、ナマエは無類の芸術愛好家として既に社交界でも名を馳せている。

そんなナマエの一番のお気に入りがコルサだった。

コルサの作品を一目見て感嘆の声を上げたナマエが、彼の最初のファンだったと言っても過言ではない。そして、そんなナマエにコルサが儘ならぬ想いを抱くのにも時間はかからなかった。

「先生のアトリエを訪れる時だけが、心休まる時間なのです……!」

くるくると変わる幼いようで美しい表情を、コルサは上手く直視出来ずにいた。美しいものをこの目に焼き付けるのは芸術家としての使命だと思っていたのに。

「っ、そう言っていただけると大変光栄です」

ぎこちない言葉は上辺の言葉ばかりを並べている。ナマエといる時、コルサはいつもそうだった。いつもは切り裂くぐらいに核心しか口にしない癖に、彼女の前ではいつも、とんだ意気地なしであった。

ナマエは暫くアトリエを観て回り、興味を持った作品について質問していく。一通り観て回るとアトリエには微妙な沈黙が訪れた。それを無理に打ち壊したのはコルサの方だった。

「今日は……、新作があります。っあ、あなたに一番に観ていただきたかった!っ、こちらです」

彼女に手を差し出し、ぎこちなくエスコートするコルサの後ろをナマエは踊るような足取りで着いていく。ナマエの歌うような声がテーブルシティからボウルタウンまでの景色をコルサに伝える。朝、世話をしていたポケモンのたまごからパモが生まれた事だとか、ムクバードの群れがタクシーの目の前を横切った事だとか。

コルサにはまるで美しい旋律か何かに聴こえるそれを極力邪魔しないように相槌を打ちながら、彼はアトリエの奥にナマエの手を引いて誘う。ナマエの手の柔らかさに目眩のようなものを覚えながら。

「こちらです」

布のかかった彫像の前に彼女を誘導し、それからあらかじめ用意していたスツールを彼女に勧める。彼女が座ったのを見届けてから、コルサは彫像を覆っていた布を取った。

「まあ!」

ナマエの驚いたような声が小さく響いた。それもそうだ。彫像はコルサの身長よりも高く、強い存在感を放っていた。繊細で美しく、それでいて力強い女神の像だ。ナマエの瞳が綺羅綺羅と輝いているのを見て、コルサは彼女に聞こえないように安堵の息を吐いた。

「すごい、すごいです!前回お会いした時はまだ、形にはなっていなかったでしょう?」

「ええ、前回あなたとお会いして湧いたインスピレーションをカタチにしたものです」

「テーマをお伺いしてもよろしいですか?」

うっとりとした目で彫像を見つめるナマエにコルサは唇を引き結んだ。聞かれると分かっていたからだ。その上で彼は「それ」を伝えようとしている。

「…………前回お会いした時、あなたから異国には美しい女神がいると聞きました。どのような生命にも優しく気高い彼女は、皆から愛されているのでしたね」

輪郭の曖昧な話にナマエの顔は曇っていないだろうか。コルサには確認する勇気が湧かなかった。ただひたすらにナマエの見ているであろう彫像から彼女に伝えるべき言葉の片鱗を探し出す。

「その話を聞いた時、ワタシは、っ、…………ワタシは、あなたの事を想い浮かべました」

「……!」

ナマエが息を呑む音が聞こえた。焦燥と高揚と、ありとあらゆる感情が綯い交ぜのまま、コルサはただ言葉を重ねるばかりだ。

「テーマなど、ありはしないのです。これはワタシの幻想の中の女神であり、永遠に足下にも届かないであろうその美しさをワタシがただ、傲慢にも切り取ろうとしただけだ。あなたを想い浮かべてただ、ワタシは、ただ、っ、」

言葉がこんなにも無力な事をコルサは知らなかった。伝えたい想いと知っている言葉の数は乖離して意味のない言葉を羅列するしか出来ない。どのような材料を使いどのようにその形を生み出して、どのような想いを吹き込んだのか。

不意に触れられた手に驚いて大袈裟に身体が揺れる。肩で息をしながらナマエを視界に収めれば、彼女はとても驚いたような表情をしていた。途端に膨れ上がった感情は水をかけられたように冷えて萎んでいく。

「っ、……申し訳ない。話し過ぎました。い、今の話は忘れて、ください」

ナマエの顔を見ていられなくて俯くコルサは曖昧な力で彼女に取られた手を払おうとした。それなのに、ナマエはその手を離さなかった。

「、先生」

密やかな声がコルサの耳朶を打つ。ナマエの瞳が心なしか甘やかに見えるのは彼の気のせいだろうか?

「いいえ、忘れられません。嗚呼、どうかその御心の全てをわたくしに教えてください」

白い手が逡巡するようにコルサの頬に添う。彼女の瞳に瞬く星空のような輝きを、コルサは知らなかった。

「…………きっと、後悔します」

「いいえ、しません。先生のお話を聴き終わった時、きっとわたくしの心は喜びに満ち溢れていると思うのです」

小さな唇から溢れる言葉がコルサの感情を揺さぶる。怖ろしいと思った。己の想いを伝えてしまって拒絶されるのが。拒絶され、踏み躙られるくらいなら、己から彼女を拒絶する方がマシだとすら思った。

「あなたは、知らない。ワタシが、どれだけの想いでこれを創ったか。あなたの事を、どう想っているかなど」

「ええ、だからこそ。……だからこそ、教えてください。先生の御心を、わたくしにもお見せになって」

強い光がコルサを見つめる。その瞳に、彼は弱かった。どんな無理難題だとしても叶えたくなってしまう。まるで忠実な召使のように。

口を開けば、酷く呆気なかった。隠してきた想いを、言葉にするのは。幾ら言葉を重ねても表現出来ないと思っていた。それなのに、どんなに言葉を重ねても同じ結論に帰結するのだ。則ち彼女を愛していると。

全てを伝え終わった時、コルサは立っていられなくて座り込んでしまう。ナマエが驚いたように寄るのを手で制しながら、コルサは彼女の顔を見る事が出来なかった。アトリエの床の一点を見つめて判決を待つ囚人のようにただ、祈る。ナマエのワンピースの裾が視界に入った。

「もう、先生ったら……!」

彼女が膝を突いて、両手でコルサの手を握ったのだ。弾かれたように顔を上げるコルサの目の前にいたナマエは美しく微笑んでいた。

「恥ずかしいです。まさか、そんな風に想ってくださっているなんて存じ上げなくて」

「っ、口に出そうと思った事もありませんからな」

「どうしてもっと早く仰ってくださらなかったの?嗚呼、わたくしも同じ気持ちなのに!」

息が詰まるような感覚に襲われて、コルサは堪らずナマエの手を握りしめた。ナマエの言葉が信じられなかった。揶揄われていると思った方がまだ平静を保っていられた。それなのに、彼女があまりに甘やかに微笑むものだからつい、信じてしまいそうになる。

「好きです、先生の事が。初めて先生の作品を観た時から、わたくしは恋に落ちていたのです」

真摯な眼差しが、コルサを射抜く。コルサは知っていた。言葉は雄弁ではない事を。それなのに彼女には何度も言葉を重ねてしまう。次に口にするべき言葉を、コルサは既に知っている気がしてならなかった。

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