幼い頃から美丈夫な御父上に良く似た子供だと、言われる事が多かった。私はその阿りに言葉を返さず(返す言葉を知らず)、父はその言葉に曖昧に頷くだけであった。その様子を見て私はいつも確信めいた物を腹の底に呑み込んだ。父は私が父に似ているという事を持て余しているのだと。父にとって私は謂わば、彼が彼の妻と滞り無く夫婦生活を営んでいたという、世間に対する一種の目眩ましにしか過ぎないのだと。
私は愛を知らぬ。いいや、知らぬと言うと少し違う。私は何不自由無く育ち、誰からも可愛がられていた。子供が願うようなこの世の大多数は手に入ってしまうような、恵まれた家だ。乳母も女中も下働きも、誰も彼も口を揃えてそう言った。だが足りぬ。私には「愛」が無い。
両親が、身を挺してその愛子を護るようなそんな。贅沢だろうか。名を与えられ、家の名を冠すことを許され、何不自由ない暮らしを与えられ、それでもそれ以上を求めるのは。贅沢なのだろうか。私の目を見て、今日の手習いの成果を褒めて欲しいと思うのは。
「そりゃあ、お前贅沢ってやつだ」
「やっぱり、贅沢なのかしら」
最近、私の家に(父の家に)に良く上がりこんで来るようになった目の前の男とは「友達」になった。私が言い出したのではない。彼が言い出した事だ。名前は尾形百之助。皮肉屋で腹立たしい事もあるが、大体において私の話を聞いてくれる。
「当たり前だろ。寧ろ世の中の親は大体が子供の事に興味なんかねえよ」
「ふうん……。じゃあ父は私の事に興味が無いのね」
何となく、気付いていた事ではあったけれどそれは妙にすとんと、私の感情の空洞にぴったりと当て嵌まった。悲しいという感情は今更だった。私の母は早くに亡くなってしまっていたので父一人娘一人、いかにも感動的な戯作が始まるのかと思っていたのにそんなものは幻想だった。父は私の事を。
「愛していないのかしら。それならどこかの家にやってしまえば良いのに。それとも存在という形式を重視しているの?私がいればお祖父さまからの援助を引き出せるから?」
どう思う?と百之助の目を見上げれば、彼は肩を竦めて面白くなさそうに「知るか」と一言呟いた。本当に面白くなさそうな声音にくすくすと笑う。父たちの話を盗み聞いて彼の身の上は少しは知っている。陸軍中将の落とし胤。私とは少し違うけど、彼も愛なんて知らない。きっと彼が年端も行かない私を「友達」と言ったのはそういう意味もある。後は、私が彼に心を許せば少なからず父に対する切り札になる。
結局誰だって私の感情などどうでも良いのだ。私に付随する僅かな利用価値に目を付けて、私に気に入られようと(或いは寝首を掻こうと)黒々とした本心を隠して私に恭順した振りをする。それでも、私だってただ利用されるだけの可哀想な娘に成り下がるのは御免だった。
「ねえ、百之助。父は私が『誘拐』されたら血相を変えるかしら」
「はぁ?さあな、そりゃあ親は子供がいなくなったら慌てふためくもんだろ」
「それは普通の親でしょう。私の父は天下の第七師団を手玉に取る鶴見篤四郎よ」
目を細めて父が慌てる顔を想像してみたけれど、やはり無理だった。想像なんて出来る筈も無い。私が怪我をした時も、流行り病に臥せった時も、父は顔色一つ変えなかった。きっと彼にとって私は感情を揺らす引き金にはなりはしないのだろう。ならば、ならばもし。
「じゃあ、そうね……。もし、私が私の意思で父を裏切ったとしたら、彼は悔しそうな顔をするかしら」
「そりゃ、少しはするかもな。例えば、俺がお前と駆け落ち同然に屋敷から消えたりしたら」
百之助の言葉に目を見開く。それから可笑しさが込み上げて私は声を上げて笑った。百之助も可笑しそうに口端を持ち上げた。私たちは(主に私は)暫く笑って、お腹が痛くなった事に更なる可笑しさが込み上げてまた笑って、そして女中が何事かと部屋を覗きに来るまで阿呆のように笑った。
「ああ、何でも無いの。下がって頂戴。当分この部屋には誰も入れないで」
「ですがお嬢様……」
「下がってってば。私たち愛し合っているのよ。私たちの邪魔をするの」
苛々と女中に手を振って下がらせれば、彼女は可哀想に慌てながら退出した。百之助は呆れたようにため息を吐くと椅子の肘掛けに身体を預ける。
「お前なあ……」
「いいの。私が百之助の事を愛しているのは本当だから」
「お父上に似て本心が掴み取れませんな」
父に似て、というその言葉に知らずに細まった目に百之助は唇を歪めて笑う。ムカつく顔面を殴り付けようと近付いて、手首を取られて引き寄せられる。顔を寄せられて囁かれた言葉に私は目を見開いた。
俺について来るか?
その言葉は先ほどの彼の冗談みたいな言葉の続きだった。百之助はまさか、本当に。そう考えたらとても、とても嬉しかった。私以外にも、父のカリスマを拒絶する人間がいた事に。
「ええ、ええ!そうね、だって私たちは愛し合っているもの。愛し合っている者たちは常に一緒にいないと」
くすくすと笑う私に百之助もまた笑った。楽しみで仕方なかった。私が裏切るなんて、きっと考えもしていないだろうあの人の顔が歪むところを想像したら。私の事で頭を一杯にする父の事を考えたら。そしてそれを成し遂げられたなら、私の行く末などもうどうだって良かった。だって結局のところ私は誰にも。
「今はまだ、機会じゃねえ。絶対に気取られるなよ」
百之助の言葉に頷いて、私はそっと思いを馳せる。私の投げた小さな石が描く波紋の模様を。父が起こした波紋の上に汚く浮かぶ、歪んだ波紋を。
コメント