ただ一人の証

名前に特別な意味を感じた事など無かった。それは俺という存在につけられた記号であって、ただ、俺と他人を区別するためだけに存在するラベルに過ぎない。名前に込められた意味も願いも俺には何一つ関係無いと、そう思っていた。

「私、なまえ!一生のお願いだから、一晩泊めてくださあい」

目の前のなまえは可笑しさを堪え切れないというように声を上げて笑った。煌びやかな夜の世界、その片隅で俺はなまえを「また」拾った。

なまえと面識は無く、初対面の筈なのに、どうしてだろう。俺は「また」なまえと出逢ったと、そう思うのだ。いつかどこかで「また逢うのだ」と約束した気がするのだ。……これは我ながら、気障過ぎるか。

なまえは頼るアテ先の無い娘で、俺はしがない独り身の男。ここで「ハイ、了解」となってしまえば、俺は両手が後ろに回るだろう。なのにどこをどう罷り間違ったのか、なまえに食事をさせてやり、数時間後には俺は彼女を連れて家に帰っていた。

「お兄さん、家出少女なんて連れ込んだら一発アウトだよ?」

物珍しそうに視線をあちこちにやりながら、なまえは気安くソファに座った。遠慮がねえな。

「かもな。まあ、どうとでもなるだろ」

「計画性が無い!まあ、私、成人してるから問題ないけどね」

やけに朗らかに笑うなまえは、「あの頃」とは少し違うように見えた。「あの頃」は、影のある笑い方をする奴だったから。そこまで思ってから、「あの頃」とやらがいつなのか、分からずに自分でも眉を寄せる。

「一人暮らしなの?家族は?」

なまえは俺の表情には気付かなかったのか、きょろきょろと興味深そうな視線を部屋のあちこちに向けている。どこかで見たようなその横顔の片鱗を掴む前に、質問が飛んでくるから俺は確信を手繰り寄せる前に回答せざるを得なくなる。

「俺一人だ。家族なんかいたら、オメエを連れ込む訳ねえだろ」

「だよねー。…………そっかぁ、一人、かぁ」

なまえが何か呟いた気がした。だが聞こえなかったので曖昧に流す。改めてなまえを上から下まで見る。真冬にしては薄着で、肌など病的な迄に白い。コイツは身体が弱かった癖にどうしてそう、薄着でいたがるのだろう。苛々しながら、空調を調節する。強めの暖気が部屋中を対流しだして、なまえが「あたたかい」と、ぽつり、と溢した。酷く、懐かしい気がした。

「それで?」

なまえの目の前のテーブルにマグカップを置いてやる。インスタントコーヒーだが、まあ、無いよりはマシだろう。なまえは自分のつま先をじっと見ていた。

「それでって?」

「これからどうすんだ、って聞いてんだよ」

「…………分かってるよう。元いた所に戻らなくちゃ」

歯切れの悪い返事に、俺はなまえを注視する。俯いた横顔の、少し痩けた顔をどこかで見た気がした。きっと他人の空似だろうが。

「元いた所?」

「うん。…………病院」

「はあ?」

「移る病気じゃないから。…………ちょっと抜け出したら、もう、帰れない時間になっちゃったの」

困ったように笑うなまえは嘘を言っているようには見えない。訝しみながらも、車の鍵を目の端で探す。身に降りかかる火の粉は早目に払うに限る。

「何なら、送ってやろうか?」

「…………、そう、だね。お願い、します」

俺の言葉に、何故かなまえはとても悲しそうな顔をした。だが、瞬きの間にその表情は影も形も無くなっていたので、きっと気のせいなのだろう。

コーヒーを飲み干して(なまえは苦い、と言って最後まで飲む事は出来なかった)、俺たちはまたしても玄関を潜る。外気に触れた瞬間、なまえが「さむ、」と呟くから、仕方なく上着を貸してやった。

「ありがと、お兄さん」

「…………百之助だ」

「……え、」

「俺の名前。尾形、百之助」

なまえが目を瞬かせるのが見えた。それ程驚く事でも無いだろうに。連れ立って駐車場に向かう。なまえの歩調は俺の物より随分とゆっくりだった。まるでわざとそうしているかのように。

車に乗り込んでからは、暫く無言の時間が続いた。気詰まりだった。さっきまで、煩いくらいに騒いでいたなまえは何かを考え込んでいるのか、酷く静かだった。

「なあ」

「うん?」

沈黙が鬱陶しかったので、なまえに話しかけてみる。すぐに返事が返ってきた所を見ると、ぼんやりしていた訳ではなさそうだった。

「何でまた、病院なんか抜け出したんだ」

「……うーん。約束、したんだよね」

「約束?」

病院を抜け出すような約束をさせる相手なんか碌な奴じゃねえな、などと思いながら話を聞く。信号が丁度赤に変わったので緩やかにブレーキを踏む。

「そう、約束。たとえ何があったって、必ず守ろうって決めた約束。でも、相手は忘れてたみたい。まあ、私が一方的にした約束だしね」

あはは、と力無く笑うなまえの横顔は、しかしとても穏やかだった。

「私の事より、お兄さんの話をしようよ。私なんかを拾ってくれる優しいお兄さんは、今幸せですかー?」

能天気な締まりの無い顔に瞬時に表情を変えたなまえに肩を竦めて応える。可も無く、不可も無くだった。仕事もプライベートも。ただ、何かが足りないという思いはずっと抱えていた。だが、それを出会ったばかりの娘に言う筈も無い。

「まあ、不幸じゃないなら、良いや」

それきり黙ってしまったなまえに、眠るつもりなのかと視線を送るが、彼女はずっと前を見ていた。誰かを想うような眼差しを、遠い日の俺は確かに見たのだと感じた。

「……なあ、」

「あ!ここ!ここで下ろしてください!」

何を言おうとしたのか分からぬまま、スピードを落として路肩に止まる。なまえがシートベルトを外して、こちらを振り向いた。視線が絡む。なまえは微笑んでいた。とびきり柔らかく。

「ありがとうございました。…………百之助さま」

「………………!」

なまえを引き留めようとした手は見事に空を切った。まるで最初から存在など無かったかのように、なまえは「また」俺の手の内から消えていってしまった。小さくなるなまえの背をただ阿呆のように見送って、二度目の家路に着いた。

脳内をぐるぐると回るなまえの表情と声に、見た事も聞いた事も無い癖にやけにリアリティのあるビジョンが明滅する。俺であって「俺」ではなく、なまえであって「なまえ」でない二人が交わした約束を、なまえは確かに覚えていたのだ。

いつの間にかソファに座り込んでいた。まるで夢のようで、現とも知れぬ数時間だったのに、家を出発する前に片付けなかったなまえのコーヒーが、それを現実だと証明する。

あんなくだらない約束を、お前は覚えていたのか。そのためだけに、わざわざ、会いに来たのか。妙に律儀な所は変わらねえな。だがもうこれで、俺に縛られる事も無い。

なまえのカップを片付ける。これで俺と名前の間には、もう、何も。

「…………?」

ソファの足下に何か落ちていた。拾い上げるとそれはなんの変哲も無いただの髪留めだった。そういえばなまえの髪は長い部類に入るだろう。入院中はこれを使っていたのだろうか。

「ったく……」

肩を竦める。だが、俺はきっと笑っている。近い内に、また、返してやりに行かねばならないだろうから。なまえもつくづく不幸な奴だ。俺のような人間に付き纏われて。

だが許されるならばまた、名を呼んで欲しい。俺の名を。かつての俺は、それを「祝福」と呼んだのだから。

名前に特別な意味を感じた事など無かった。それは俺という存在につけられた記号であって、ただ、俺と他人を区別するためだけに存在するラベルに過ぎない。名前に込められた意味も願いも俺には何一つ関係無いと、そう思っていた。だがそれは、ただ一人に呼ばれるためにある物なのだと知った。俺がただ一人を愛した証なのだと。

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