柔らかな呼び声がして振り返る。そこは俺の故郷の村に似ていた。青田の向こうに並ぶ山々の稜線には何故か見覚えがあったから。そして俺の視線の先には。
「ひゃ・く・の・す・けー!」
なまえがいた。
太陽のような笑顔で、手を千切れんばかりにぶんぶんと振って、その手には何かを、赤子だろうか、抱えている。訝しい、と俺は思ったのにその思考とは逆に身体は前へと進んでいた。
「迎えに来たよ」
「悪いな。……連れて来たのか」
「この子もお父さんに会いたいと思って」
この状況をおかしいと思っているのに、何故か状況に適応した言葉がするすると出て来る。なまえの腕の中にいたのはやはり赤子だった。そしてそれは俺の子なのだと、俺はこれまた何故か確信していた。なまえと、俺の間に生まれた、我が子なのだと。
そうだ、全てが終わった後、俺たちは一緒になったんだ。俺となまえは金塊の分け前を幾らか貰って、それを元手に田舎に引っ込んだ。そこは俺の故郷にもなまえの故郷にも似た、でも誰も俺たちの事を知らない田舎の村だった。そして一緒になった俺たちの間には、当然の帰結のようにこの子が生まれた。なまえの腕の中、すやすやと眠るこの愛子が。
考えを巡らせている俺の右手に握られた鍬がふと目に入った。首に巻かれた手拭いも。そういえば、俺は今日一日農作業をしていたんだっけ。秋に取れる葉野菜や豆を植えるため。最初は慣れなくて手に肉刺ばかり作っては潰していたが、今では随分と慣れたものだ。「家族」を支えるため、俺は俺なりに「父親」をやれているようだ。
「……百之助?」
「……あ?」
どうやら思考の迷宮に囚われていたらしい俺を不思議そうななまえの声が呼び戻す。慌ててなまえの顔を見れば、彼女は大きな目をまろやかに蕩けさせて首を傾げていた。
「どうしたの?ぼうっとして……」
きょとんとした、まだ子供のような彼女の顔はしかし、出会った頃よりも幾分も大人びていた。その緩く結われた髪を崩さないように撫でると、彼女は擽ったそうに目を細めて笑った。
「うふふ~」
「気持ち悪ぃ」
にまにまと緩み切った顔が俺は好きだったけれど、それを口に出して認める事はどうしても出来なくて憎まれ口を叩く俺に、なまえはまた笑った。しかし今度は締まりの無い顔ではなくて、もっとあたたかくて俺を包み込むような、「慈愛に満ち溢れた」とでも形容するのがきっと正しいのだろう、そんな柔らかくて擽ったい綿のような表情だった。
「帰ろっか」
「……ん」
どちらからともなく俺たちは向き直る。俺を見上げるなまえの顔は緩やかな笑顔だった。思えば俺はこいつの笑った顔しか見た事が無かった。それは旅の最中も同じで、泣いた顔なんて一度も……。
「……いや、コトの最中は見てるか」
「は?何言ってんの?」
怪訝な顔のなまえに俺は何でも無いと、薄く笑って誤魔化す。なまえは尚も眉を寄せていたが、俺は更に誤魔化すように彼女の腕の中の我が子を潰さないように彼女を、妻を抱き締めた。
「ちょ、百之助……?」
「なまえ……」
額合わせに顔を近付けて、なまえが軽く目を見開いたのが分かる。でも拒絶されなかったから良しとしよう。俺はゆっくりと目蓋を下ろし、その柔らかな唇に己のそれを近付けて…………。
***
「……、?」
重い目蓋を持ち上げる。そよそよと爽やかな風が吹いている。いつの間にか俺は木陰で転寝をしていたようだ。先程まで腕の中にいたなまえは。
「尾形、起きた?」
目の前にいた。俺の顔を覗き込むように中腰になって、笑っていた。腕の中には愛子はおらず、彼女は一度家に帰ったようだった。
「……なまえ」
「やっぱり疲れてたんだねー。結構長い事寝てたよ?」
なまえが何やら言っていたが俺には何故かまだ意味を成す言葉としては受け取る事が出来ない。今の俺の頭の中にあるのは「先程の続きをする」ただそれだけであった。
「ほら、行こう。みんな、待ってる……!?」
「なまえ……」
目の前には目を一杯に見開く彼女の顔。軽く触れるだけに留めて、すぐに顔を離せば、なまえは顔を真っ赤にさせて唇を押さえた。
「な、なななな、お、おがた……!?」
「あ?なんで、そんなに驚いて……」
そう言ってはたと気付いた。なまえの肩越しに見えたもの。目を見開いた杉元と白石の姿。
「お、おい尾形テメー…………」
「お、おおおおお尾形ちゃん!?」
動揺しきりの二人となまえにじわじわと我が返って来る。そうだ思い出した。俺は、俺たちはまだ旅の途中で、小休止中だったのだ。昨夜白石の歯軋りで眠れなかった俺はつい、木陰に座り込んで転寝を……。
「……夢かよ」
「っはあああああ!?」
目から火花が出るかと思った。脳が揺れるような感覚と熱を持つ頬。なまえに引っ叩かれたのだと気付くのに時間はかからなかった。引っ叩かれた頬を押さえてなまえを見れば、彼女は目を吊り上げてわなわなと震えていた。
「ふ、ふざけないで!最低!!ほんと最低!!軽々しく女の子にせ、接吻…………!!」
「そ、そうだぞ!!なまえさんに謝れよ!!」
「そ、そうだぞ!!むしろ俺がしたかったわ!!」
「ちょっと白石!!どさくさに何言ってんの!!」
「は?別に軽々しくなんかしてねえけど」
「え」「え」「え」
呆気に取られたような顔をする三人にもう一度同じ事を言う。意味を理解して目を見開いて、硬直する三人を尻目に立ち上がった時だった。
「っざけんなあああああ!」
また脳が揺れた。先程とは逆の側の頬が熱を持つ。
「尚の事悪いわ!馬鹿!馬鹿!ばかああああああああ!何でちゃんと告白してくれないの!」
真っ赤な顔のなまえが走り去るのが見えて、俺は引っ叩かれた頬を撫でる。その捨て台詞が俺の気持ちに対する応えだとも気付かない彼女を追い掛けるために一歩を踏み出して。
しかしながら俺が彼女と会話出来るまで、もとい彼女が機嫌を治して俺の改めての告白を受け入れてくれるまで一週間もかかる事を俺は未だ知らないでいたのだった。
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