或る夜の話

静かな夜だった。ここ何日か降り続いていた長雨は空が橙から紫に変わる頃には影を潜め、代わりに虫たちが好き勝手に求愛の鳴き声を絞る。それは夏の夜の事だった。

(……眠れない)

布団の中で三度目の寝返りを打つ。明日のためにも早く寝てしまわなければいけないというのに、その事を考えれば考える程に私の頭は冴え渡り、眠気の「ね」の字も私を襲う事は無かった。いっそ諦めて一晩まんじりともせず布団の中で寝返りを打ち続けるか、と考えもしたが明日、事の最中に船を漕いでしまったら、なんて恐ろしい想像が頭を掠めてしまい、私は自身の想像を内心で首を振って打ち消した。

それでも寝られないものは寝られなかった。緊張、というか、武者震い、というか、とにかく明日は私の人生にとってまさに一大事。そんな日の前の晩に、まさか普通の日の夜と同じように眠れというのはいささか無理があるというものだろう。

(仕方ない……。ちょっぴり散歩に行って気分転換でもしよう)

思うが早いか私はそっと布団を抜け出す。家族を起こさないように慎重に忍び足で歩きながら、私はふと、私の幼馴染の事を考えていた。そのせいで土間で足の小指を思いきりぶつけて危うく大声をあげるところだったのだが。

「んー……、夜はやっぱり涼しい……」

何とか家を抜け出していざ、夜の散歩!と歩き出す。どこに行くかは決めてなどいなかったが、夏場特有の湿っぽく、しかしそれでいて僅かに吹く風の清涼さは私の昂っていた神経を少しずつ宥めていく。さくさくと、当て所もなく歩いていると、先ほど思いを馳せていた幼馴染の家の方向に、足が自然と向いていると気付いた。そして気付いた時にはもう、私は百之助の家の前にいた。

ちりちり、ころころ、りんりん

虫の音が私しかいないような世界に鳴り響く。現実にそんな事ある訳無いのに、私は世界にたった一人きりになってしまったような心持ちがして、慌てて取り繕うように小さな声で彼の名を呼んでみた。

「百之助くーん」

幼い頃、私が山で足を挫いて難儀しているところを、百之助が負ぶって家まで連れ帰ってくれた。百之助は同年代の中でもそれ程大柄な訳ではなかったから、きっと私を負ぶって山道を降りるのは大変だったろうに、それでも彼は文句ひとつ言わず、痛みに泣きそうな私を不器用に、言葉少なに励ましながら帰ってくれた。その時からだった。私が百之助に惹かれたのは。

「百之助くーん、いないのー?」

この呼び方も、幼かった私が彼に近付くために毎日飽きもせずこの家の前で口にしていた言葉だ。はっきり言って周りから浮いていた百之助は最初は私の呼び声を無視し続けていたけれど、ある時から時々、私の声に本当に時々縁側から顔を覗かせるようになった。それがいつだったのかは残念ながら思い出せないのだが。

「百之助くーん、帰るよー」

くすくすと笑いながら形式的に百之助の家に手を振って踵を返そうとした時だった。

「お前、馬鹿じゃねえの?」

「ひゃあああああっ!?」

唐突に後ろから声がして、私は悲鳴を抑え切れなかった。慌てて声のした方を見る。

「百之助?」

「他に誰に見えるんだよ。つかさ、お前馬鹿じゃねえの」

先ほどと同じ台詞を口にしながら、百之助は袖口をごそごそやって、そこから潰れた煙草の箱とマッチ箱を取り出す。口に咥えた煙草に火を点ける流れるような動作に、ああ、こいつも大人になったんだな……、としみじみしていたら、また「お前、馬鹿だな」と言われた。

「失礼だなあ。これでも小さい頃は末は博士か大臣かって言われたことも……!」

「いつの時代の話だよ。そういうところが馬鹿なんだ。こんな夜中に一人でほっつき歩いて」

「何よ、百之助だって一人じゃない」

「あのな、男と女っていうのには越えられない壁があるんだよ」

ああ、心地良い。百之助との会話は打てば響くように次の言葉が返ってくる。答えられない程難しい言葉じゃなく、それでいて答えを見つけるのが億劫な程簡単過ぎる事も無い。くすくすと笑う私に呆れたような視線を向けた百之助は、そして僅かに目を細めて唇を噛んだ。

「……眠れなかったのか?」

その声音がさっきの軽口より幾分低い事に気付く。小さく頷いた時、百之助は大きく一つため息を吐いた。

「不安か?」

「……まあ。そりゃあね」

何も言っていないのに、二人して歩き出す。私の小さな足音と百之助の少し大きな足音が静かな夜に木霊する。その上から虫の音が被さってさっきまで一人だった世界に百之助が増えた。私たちがどこに行こうとしているのかはすぐに分かった。蛍川だ。私と百之助は大事な話をする時、いつもそこに行く。この時期だと、その名の通り蛍もいるかも知れない。無言で歩き続ける私たちだったが、私はふと、思い付きを口にした。

「百之助もでしょう?眠れなかったのは……」

「俺のは……、まあ良いんだよ」

口を濁す百之助に微笑みながら、私は彼の手をそっと握った。でも、百之助はそれをやんわりと解いたから、私は凍り付いたように動けなくなる。もしかして、百之助は。

「ほら、負ぶされよ」

「……は?」

そこで気付いた。私たちは早々に蛍川に着いていたのだ。この時期蛍川には川辺に沢山の葦が生い茂っている。そしてその葦は夕方までの雨で濡れそぼっていて。目の前にしゃがむ百之助に私は急に泣きたくなった。

「……うん、」

私は恥じた。百之助はもしかしたら言えなかっただけなんじゃないかって思った事。私と明日、祝言を挙げる事が嫌だと、言えないままここまで来たんじゃないかって。そっと膝を突いて百之助の背中に額を押し当てる。馬鹿だなあ私も百之助も。着物姿でおんぶされたらどんな端無い姿になるか、そんな事も分からないくらい優しい百之助が、私は大好きだって事を当たり前過ぎていつの間にか忘れていた。

「なまえ……?」

訝しそうに私の名前を呼ぶ百之助の身体を抱き締める。伝わりますように、と願いながら。

「私ね、不安だったのはもしかしたら明日から百之助との関係が変わっちゃうんじゃないかって思ってたからなんだ」

「なまえ、」

「でも初めて会った時から百之助は何一つ変わってないって分かって安心した」

ぎゅう、と百之助の大きな身体を抱き締めて、私はゆっくりと彼から離れる。振り返った百之助は困ったように不器用に笑うとそっと私の頬を撫でた。

「お前も、変わってないよ。不安になると、いつも蛍川に来てた」

「えっ、そうかな」

「神様お願いです。明日は百之助くんとお話できますように」

「えっ!!!」

耳馴染みのある言葉にびくり、と身体が硬直する。それはかつての私が蛍川の神様(私が勝手に信仰している)に毎晩願っていた事だった。

「まさか、聞いてたの!?」

「あれだけ熱心に祈られたら、無視するのも罪悪感があるしな」

悪戯っぽく笑った百之助は一歩私に近付くと、その見た目からは似合わない程に繊細に、私の体を包み込んだ。

「俺もお前も変わってない」

腕の中、言葉を発するのは少し難しかった。でもきっと百之助は気付いてくれると思う。だから私はゆっくりと彼の背中に腕を回した。あなたとなら、大丈夫だと。

星の瞬きが空から降ってきそうな夏の、或る夜の話である。

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