曖昧にリアル

「そこはもう少し深い緑でしたよ」

彼女はよく、ワタシの絵を見てそう言った。写実ではなく心象だと言っても毎回同じ事を言った。

ナマエは少し稀な能力を持った娘だった。直観像、とでも言うべきか。見た物を写真のように記憶できる。成長するにつれて消えてしまうその能力を、ナマエは保持したまま大人になった。そしてそのイメージをキャンバスに描き起こすだけの絵画の才能もあった。だからナマエの描く絵はいつも写真と見紛う程の緻密さであった。

「私は写実しかできないのです」

感情に薄い表情でナマエは一昨日見たキマワリのボディに色を落としている。図鑑では単色に見えるそれでも、実際に見てみるとやはり色の違いはある。ナマエはその差を見事に表現していた。恐らくこのキマワリは個体番号3のキマワリだろう。

「いつ見ても写実の腕だけは一級品だな」

「見て描く事は得意です」

心象を纏める事は苦手ですが。

絶妙な配合の緑色を筆に乗せて滑らせながら、ナマエは目を細める。彼女は感情の理解に乏しい娘であった。己の感情だけでなく、他者の感情についてもまた。

初めて会った時などワタシの作品を見た彼女は作品に纏わる「感情」にばかり目を向けていた。それは恐らく己の理解能わない領域の解明だったのだろう。

「感情をそのまま作品にぶつけるだけだろう」

「その感情はどのように掬い取るのでしょうか」

ナマエ曰く、感情によって心が動く事は理解できても、その感情に明確な輪郭が得られないらしい。

「感情に突き動かされるという事がキサマには無いのか?」

「…………よく、分かりません」

「では何故描く?それは『描きたい』というキサマの感情に突き動かされた結果では?」

「描くのは描かねばならないからです。呼吸をするのと同じです。先生は感情に突き動かされて呼吸をするのですか?」

ワタシの問いにナマエは少し首を傾げて淡々と答える。至極当然な答えに思わず唸ってしまう。全く認めたくない事実ではあるが、その点はナマエとワタシは同じようだ。

「…………感情が分かれば、私の作品にも変化が出るのでしょうか」

「……、画風を変えるのか?」

「………………、私のパトロンを覚えていますか?彼にそう言われています」

ナマエの言葉に記憶を辿る。彼女のパトロンについて、ワタシはあまり良いイメージを持てなかった。金に物を言わす手合い。ナマエの才能よりその容姿を気に入ったような男だった。

「くだらんな。他者に強いられた作品など何の足しにもならん」

「……奇遇ですね。私もそう思いました」

今日初めて、ナマエがその端正な顔に薄く笑みを乗せた。それだけで、随分と場が華やいで、自分の体温も少し上がった気がした。他者の感情に疎いというのは、こうも腹立たしいものかと、思う。

彼女を知ったきっかけは単純なものだ。初めて彼女の描いた風景画を見た時に、これまでに無い感情の昂りを感じた、それだけの事。まだ駆け出しのナマエが偶然訪れたボウルタウンを題材に描いた一枚。知り合いのアーティストに紹介されて知ったその作品が、これ程長い間己の感情を乱す事を当時のワタシは知らなかった。

知り合ったきっかけはもっと単純だった。ナマエ自ら、ワタシを訪ねてきたのだ。ワタシたちは不思議と意気投合し、互いの作品の話、美術論、下らない雑談まで、様々な話をした。時折、請われて指南めいたこともした。元々才能の塊だったナマエは、ワタシという他者の刺激を受けた事でめきめきと実力を伸ばしていく。新進気鋭のアーティストとして注目を浴びるようになったナマエが何処か遠くに感じるまで、ワタシは酔っていたのだと思う。彼女の才能を、己こそが理解出来ると。

「恐らくですが、彼は私を所有したいのだと思います」

ナマエの声に現実に引き戻される。ナマエは依然として乏しい表情を、それでもやや顰めていた。

「所有?」

「はい。……先日、交際を申し込まれました」

動揺で息が詰まる。悟られないように努めながらナマエの話を促せば彼女は辿々しく説明する。今後の支援の交換条件に交際を提示されたと。下劣な品性に苛立ちが募る。

「それを、キサマは受けるというのか?」

「私は描く事さえ出来れば何でも良いです。でも、もし彼と交際する事になれば、もう先生とは会えなくなるのでそれは残念に思います」

衒いのない真っ直ぐな瞳に気押される。感情に疎いのではなかったのかと、苦々しく思った。ナマエの瞳に乗る色が、本当に寂しげに見えて。

「ならば、」

「はい」

「ならば、ワタシの許に来い。絵なら好きなだけ描かせてやる。画風もキサマの好きにしろ。……今のキサマは、かつてない程に感情的だ」

ぱちり、と目を瞬かせたナマエの顔を直視出来ない。少年でもあるまいに、高鳴る心臓に居た堪れなくなってくる。ワタシの言葉を咀嚼するナマエは首を傾げて私を見た。

「それは、とても嬉しい事だと判断出来ます」

「…………もっと色気のある言い方は出来ないのか」

「先生の傍でもっと勉強したいです」

「……まあ、及第点としておいてやる」

手を出して、ナマエの髪を梳くように撫でる。少し驚きを見せたナマエを鼻で笑った。今日の彼女は随分と表情豊かだ。

「何となくですが、今なら心象で作品を作れそうな気がします」

「奇遇だな、ワタシもだ。……共同制作と行くぞ」

「そうしましょう」

ナマエの表情が柔らかい気がする。今なら最高の作品が作れそうな気がすると、きっとナマエも思っている。

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