最低な話

駆け出しの頃のコルサの想定

散らばった射干玉、汗ばんだ滑らかな肌、くねるしなやかな体躯、そして蕩けた翡翠の瞳。何を取っても彼女は美しいだろうと、コルサは見た事もないのに確信を持って口にする事が出来た。

彼女、ナマエの両親の反対を押し切って半ば強引に同棲を始めてもう、一年以上経つが未だに「そういう意味」での進展をコルサは彼女には求めなかった。彼女を大切にしたいという尤もらしい錦の御旗を掲げる裏で、その実コルサは恐ろしかったのだ。

駆け出しの何者でもない己が、彼女を得てしまったらそれこそ何者でもない現状にも満足して終わってしまうのではないかと。本能はぞっとするくらいに彼女を求めて暴れ回っているのに、僅かに残った理性がそれに箍を嵌めた。彼女と生涯を共にするのならば、何者でもない己は相応しくないと思った。

ナマエはテーブルシティのそれなりに裕福な家庭の一人娘だった。幼い頃は身体が弱かったらしく、両親は過保護と言っても差し支えない程に彼女を愛した。それでも持ち前の性格故なのか、ナマエは誰しもを魅了するような楚々とした娘へと成長した。その魅了にまんまとコルサも引っかかってしまった訳だが。

コルサはナマエの絵画の教師だった。それは彼女自身が求めた事であった。いつだったかどうしようもなく食うに困ったコルサが、食うための作品を描いた事があった。描きたい物ではない、大衆に迎合した取るに足らない作品だ。それがどういう訳かナマエの感性に刺さったという訳だ。

最初にその話を打診された時、コルサはとても面倒な事になったなあと思った。令嬢のご機嫌取り程彼に向いていない仕事は無かったからだ。それに「あんな作品」を気に入るような人間と自分は合わないだろうというどこか確信のような思いもあった。

それが一目見て、彼女に捕らわれたのだから縁というのは奇妙なものである。白いワンピースを身に纏い、優しく微笑むナマエの瞳は、コルサが好きな翠色をしていた。

月に一度か二度、コルサはナマエの家でナマエに対して絵の指南をした。と言っても絵画など当人が思うままに描けば良いものだ。ナマエにはそれなりの技術も備わっていたから、コルサがする事と言えば専ら彼女の話し相手であった。

ナマエは大人しそうな見た目に反してよく喋った。それでも彼女はただ煩い訳ではなく、その話題も日常の感動をコルサにも分け与えるような、どうにも擦れていない純真なものだったからコルサは更にナマエに好感を持った。

だからといってコルサがナマエとどうこうなりたいと思う事は無かった。住む世界の違う人間を恋い慕っても上手くいかない事は知っていた。それなのに、なんやかんやあってボウルタウンでナマエと同棲する事になったのだから縁とは不思議なものである。

そして話は冒頭へ戻る。

コルサとて普通の成人男性である。好いた女の身も心も得たいと思う。だが、どうにも恐ろしい。彼女の全てを得てしまったら、己がそこで終わってしまうような気がしてならなかった。

ナマエは箱入りだからなのか、共に暮らすようになってもコルサが彼女に指の一本も触れてこない(誇張ではなく)事に対しても何の言及もして来なかった。それもそれで複雑ではあるのだが。

元々欲については淡白な方だとコルサは自負していた。なのにナマエと同じ空間にいるだけで、よからぬ妄想が彼を苛むのだ。思春期の少年でもあるまいに、ナマエの柔らかな肢体を想像して彼が己を慰めたのは一度や二度ではすまなかった。

渇く程にナマエを求めている。それでもコルサが何者でもない者に成り下がった時、ナマエはともかくとして彼女の周囲が二人を良しとするとは思えなかった。これは最早意地である。ナマエの香に劣情を催す度にコルサはなけなしの意地でここまでやってきたという訳だ。

ところでコルサが誇張ではなくナマエに指一本触れていないのに対してナマエはどうなのかというと。

「今日はチュリネを見つけたんですよ」

得意そうに腕に抱えたチュリネを見せるナマエとコルサはゼロ距離だ。出会った頃は警戒心の強かったナマエであるが、彼女はどうやら心の距離感と身体的な距離感が比例するようだ。今の二人は肩と肩が触れ合い、見つめ合えばそれこそ唇でも触れそうな距離である。

足下でナマエの一番の相棒であるリーフィアがコルサの足に擦り寄っている。彼女のリーフィアは何故か初対面の時からコルサによく懐いていた。「イーブイの時から一緒なんですよ。彼女が懐く人は私も信頼するようにしているんです」と得意げなナマエの表情を思い出す。それもこれも現状から目を逸らすためである。

コルサより頭一つ分低い位置にあるナマエの旋毛を見る。彼女の表情を直視する事は出来なかった。ナマエが甘えるようにコルサに擦り寄るものだからコルサは喉の奥で変な声が漏れるのを何とか我慢した。出来たかどうかは定かではないが。

コルサの影響か定かではないが、ナマエはよくくさポケモンを捕まえてくる。どれもが彼女によく懐いていて微笑ましいは微笑ましいのだが、正直コルサは少々複雑でもある。

ポケモンだから致し方ない面もあるが、何しろ彼ら彼女らは主人へのスキンシップが激しいのである。腕の中に飛び込む者もいれば、頬擦りする者もいる。もっと言えばナマエの唇に触れられた者もいるのだ。主人の恋人を差し置いて……と思わなくもない。

ともかくそんな事はおくびにも出さず、コルサはさり気なくナマエから心持ち距離を置くと彼女の腕に抱かれているチュリネの葉を撫でてやる。途端にご機嫌になるチュリネにナマエが甘く微笑む。

「先生の手は魔法の手ですね。チュリネもとても嬉しそうです」

「、っ」

する、とナマエの白い手がコルサの骨張った手に触れる。咄嗟に手を引こうとして、それがナマエを拒絶しているような気がして耐えた己をコルサは自分で褒めた。

「先生、」

ナマエの瑞々しい唇がゆっくりと開くのが見えた。

「チュリネのように、わたくしにも、触れてほしいです」

ナマエの白い頬が薄ら上気している。上目に見つめられると毒々しい程の色香に襲われる。重ねられた指に細い指が絡まる。期待したようなナマエの瞳が目蓋に覆われる。コルサとしてはナマエを引き離さなければならなかったのに、何故か彼女との距離は近付くのだ。

顔が近付き、吐息が混じり合う。

「…………え、」

予想とは異なる箇所に落ちた熱にナマエの拍子抜けした声が漏れる。頬に落ちた唇を離したコルサの顔は耳まで赤い。

「~~~~~っ!寝る!!!」

弾かれたように距離を取って足音も荒く寝室に向かうコルサをナマエは呆気に取られたまま見送る。

「…………少し揶揄い過ぎたかしら」

一人残されたリビングには、笑いを堪えたようなナマエの言葉が転がった。実はナマエの方が一枚も二枚も上手なのを知らぬのはコルサ本人ばかりなのである。

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