初めて見た時から近付きたいとは思えない人物だった。どこか人間離れしていて、人の心の隙間にするりと入って取り入ってしまう様は人間というよりも西洋の物語に出て来る悪魔のように思えたからだ。しかし私がこう言うと人は決まって私の方を非難する。まるで神々しい信仰対象が目の前に現れたとでも言わんばかりの恍惚とした表情で「彼」の事を褒めそやすのだ。「あの人は私の救い主なのだ」と。
「なまえ」
「下の名前」を呼ばれるのは二人きりの時だけだと相場が決まっていた。そしてその時が私にとっては露程も有り難くない場合だという事もまた。しかし相手はこれでも上官である。私は形式的に口角を持ち上げて振り返った。
「……何でしょう、鶴見中尉殿」
「来なさい」
「…………」
思わず身構えてしまうのも納得していただきたい。目の前のこの鶴見何某中尉が私にこう言った時に碌な目に遭った事が無いのだ。最大の不幸はそんな私に彼が興味を持ってしまった事。そして私の家に唯一の家族である弟がいた事だろうか。いや、弟は悪くない。ただ悪い事があったとするならば、弟は軍人だった。それも第七師団所属の。そして弟経由で私の目の前に現れたのがこの鶴見と言う男だったという訳だ。彼は私を目に留めるなり勝ち誇ったように言った。「私の命令一つでお前の弟は死地にも逝くのだ」と。私には選択肢など無く、そうして私は私自身と引き換えに弟の身の安全を買っているという訳だ。
「なまえ、俺の手を煩わせるな」
いつもの胡散臭そうな相手を懐柔する微笑みが嘘のように鶴見は苛々とした様子で大きくて厚い執務机の縁を指で二、三度叩く。きっと彼の目指しているものを手に入れる過程で何か苛立つ事があったに違いない。そういう時は更に面倒である。憂さ晴らしの道具にされてしまうのだから。
「……はい、」
断っておくが怖い、という感情は無いのだ。この男は絶対に私に無体を働こうとはしなかったし、或いは私の本気で嫌がるような事もしなかったから。流石にそこまでされたら私は舌を噛んで自害するしかない。ただ強いて言うなら私はこの鶴見という男の事が大嫌いだった。だからこそ言葉を交わす時も、触れられる時も変に身構えてしまうのだ。
私が静かに近付くのを待っていられないとばかりに、腕を掴んで引き寄せられる。飛び込んだ胸板は硬くて、余り筋骨隆々には見えないのにやはりこの男も軍人なのだなと変な感慨に浸ってしまった。それでもこのような場面を誰かに(取り分け宇佐美に)見られると面倒なので、抵抗はしておく。硬い胸に手を当てて押し返そうとする。
「……抵抗すれば、大事な弟はどうなる?」
ぴたりと止まる私の手にくつくつと喉の奥で嗤った鶴見は、私の抵抗など無意味だとでも言うように、私の背に腕を回し更に引き寄せた。今更感情がめちゃくちゃになどならなかった。ここに来た最初の頃は、鶴見のする事言う事全てに一々感情を揺らせて動揺もしていたが、もうそれも過去の事だ。私はもう、殆ど動揺する事も無く、自分に与えられた仕事をこなしていた。すなわち鶴見の暇つぶしの相手を。
「鶴見中尉殿……、」
「なまえ、お前は相当物覚えが悪いと見える。二人きりの時は俺の事をどう呼べと教えた?」
「……篤四郎さま」
私のため息と共に吐き出された彼の名前に、鶴見は満足そうに唇を吊り上げる。嫌々呼ばれる名前のどこに嬉しさがあるというのだろう。私にはよく分からなかった。いまだ鶴見の腕の中で私たちは睦言を交わす男女のように寄り添いながらぎすぎすとした雰囲気を醸し出す。
「篤四郎さまの事がよく分かりません」
「俺の事など理解しようと思わなくて良い」
「どうして私などに執着されるのですか」
私の言葉に私の首筋から顔を上げた鶴見の昏い目と私の瞳がかち合う。吸い込まれそうなくらいに深い淵のような彼の瞳に私は魅入られそうになって堪らず目を逸らす。私の怯えに気付いたのか鶴見は初めて会った時のように勝ち誇った顔で笑った。
「簡単な事だ。憐れな小動物を甚振りたいと思うのに理由など要るか?」
……つまり私は「憐れな」「小動物」だと。人間扱いすらされていなかった事に今更ながら呆れと諦念が私を支配する。脱力してしまった私を見つめる鶴見の額から零れ落ちる体液に気付いた私はそっと、手布をそこに当てようとして、制された。
「体液が零れていますよ、拭かないと」
「拭かなくて良い。舐めろ」
「は……」
「聞こえなかったか?『舐めろ』と言った」
酔狂な事だ。私が気味悪がって言い付けに従えないところで弟の事を持ち出して私が板挟みに苦しむ顔でも見たかったのだろう。確かに気心も知れない相手のしかも体液を口にするというのは気味が悪い(気心が知れていても気味悪い)。それでも私には選択の余地はないのだ。大切な弟の顔が脳裏に浮かぶ。尖らせた舌で撫でた鶴見の眉間を滴る体液は酷く苦くて、顔を顰めれば、「随分良い顔をするようになったじゃないか」と嘲笑され、その小綺麗な顔を殴りたくなった。
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