なまえが前山と話している声が聞こえる。俺と話す時のような平坦な声だと思ったが、やり取りが妙に続いている。いけないとは分かっていても聞き耳を立ててしまう。
「なまえさんは何の動物が好きなの?」
「……猫、でしょうか」
「ああ、猫。飼っているよね、名前はなんていうの?」
「九代目です」
それは名前というのだろうか。ぼんやりと考える。だが江渡貝兄妹に常識が通じない事は今に始まった事ではないので、とりあえず聞き流す。
「九代目かあ……、いい名前だね」
前山の意外な反応に俺となまえは同時に驚く。前から少しおかしい奴だとは思っていたが、まさか江渡貝兄妹寄りの感性の持ち主だったとは。なまえもまさか肯定されるとは思っていなかったのか目を見開いている。
「誰がつけたの?」
「え、あ、兄さん、です」
「へえ~。何だか江渡貝くんに親近感感じちゃうなあ。ボクも犬を飼っていたんだ」
「そうなんですね、お名前は?」
「うん、奇妙丸」
聞き耳を立てているのがバレると面倒なので努めて冷静な態度を装うが、このままだと前山に対する認識を改める事になりそうだ。無害な人間だと思っていたが、戦争中に見た前山の方が本質に近いのかも知れない。一応なまえの様子も窺うが、特に何か思っているような素振りは無い。
「動物を飼うのって楽しいですよね。九代目はあまり甘えて来ないんですけど、本当に時々膝に乗ってくれる事があるんです。それがとても可愛くって」
「分かるよ~、奇妙丸は凄い甘えん坊だったんだけど、寝ていると布団の中に入って来るんだよね」
「羨ましいです……。九代目は私の事を餌をくれる人としか思っていないんです。兄さんにはよく懐いているのに……」
なまえが饒舌な事に少し驚く。少なくとも俺とはこれ程までに話した事は無い。何かよく分からないが不快な感情が湧いて、苛立ちを煙草を咥える事で誤魔化す。
「あはは、猫は自由だからね。世話してくれる人の事は下僕って思うらしいし」
「下僕……。でもそれでも良いです。猫さんの下僕なら」
「分かるよお。ボクも除隊したら犬に囲まれて暮らしたい」
紫煙を吐き出していると、件の九代目が俺の足下にやってくる。にゃおんと鳴いたソイツは俺の足に身体を擦り寄せる。まるで「ご苦労様」と言われているようで苦笑が漏れる。前山となまえの会話はまだ続いていた。
「前山さんは犬さんの何処が好きですか?」
「そうだなあ、やっぱり飼い主に忠実なところかなあ」
「やっぱり犬さんは従順なんですね」
「まあ躾次第だけどねえ。ボクの家は代々犬を飼っていたから躾は出来たからさ」
なまえから質問を振っている場面など見た事が無かった。というかなまえは江渡貝以外にも話し掛ける事があるのかと、俺は面白くない感情を紫煙と共に吐き出す。
「家でも一度犬さんを飼おうかと思った時があるんです。防犯目的に」
「ああ、犬がいると少し安心だよね。番犬としても」
「ええ、でも兄さんが怖いと言うので仕方なく諦めました……」
「あはは、怖がってる事が犬に伝わると、途端に舐められるからねえ」
「そうですよね……。兄さんが怪我をするのは本意ではないので……。でも犬さんを飼ってみたいんですよね。出来れば大型犬」
「うんうん、大型犬を完全に躾けて従えてる時の万能感は異常だよね」
頭の中でなまえが軍犬のような大きな犬を従えている想像をする。似合わない訳ではないが、彼女にはどちらかと言えば九代目を抱いている方が似合っている気がする。というか俺は九代目を抱いていて欲しい。
「………………」
今俺は何を考えていた?なまえが軍犬を連れていようが何をしていようが関係ないというのに。九代目を抱いていて欲しいだなどと、まるで俺の理想を押し付けるような思考に、ぶるぶると頭を振った。前山となまえの会話は依然として続いている。
「そういえば、子供を授かったら犬を飼えと聞いた事があります」
「ああ、よく言うよね。確かに番犬には持ってこいだよ。犬は賢いから子供を守ってくれるし」
「私も嫁いだら絶対犬を飼うんだと小さい頃兄さんに言った事があります。兄さんが号泣して大変でした」
「あはは、なまえさんの花嫁姿、綺麗だろうなあ」
前山の言葉で余計な想像をしてしまう。白無垢姿のなまえは一般的な美的感覚からすれば美しいと言えるのだろう。頬を染めて俯きがちのその視線の先に誰がいるのかなど、考えるのも面倒だった。丁度煙草も吸い終わったので立ち上がる。その際に机の上の本を袖で引っ掛けて落としてしまう。まずい、と思った時にはもう遅かった。
「うるさいです!!!今の誰ですか!?」
「兄さんどうしたの?」
「今音を立てたの誰!?」
「今のは月島さんよ」
「月島さん出て行ってェェェ!!!」
江渡貝の金切り声に遠い目で肩を竦めて俺はとりあえず剥製所の扉を静かに開けて出る。今日は厄日かなと思ったが、ここ最近毎日厄日だった事を思い出して深くため息を吐いた。一緒に外に出た九代目がまたなおん、と鳴いて俺の足に身体を擦り付けて来た。
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