ナマエに何も言わず遠く離れた地まで来てしまった、と今更ながらヴァシリは厄介な問題に目を細めた。
名実ともに婚約者となった二人であったけれど、ヴァシリにもナマエにも己の生業がある。二人の心の繋がりとは裏腹に、物理的な距離はヴァシリがその想いを伝える以前よりも遥かに隔たっていた。
チャリ、と胸元の指輪が音を立てる。ナマエと婚姻の約を交わした時に交換した指輪だ。行商人であるナマエはいざ知らず、ヴァシリは狙撃手であるため、狙撃に不必要な装飾品を着ける意味を理解できなかった。それでもナマエとの婚約の証であるそれを着けないという選択肢もまた、彼には無く。代替案とでも言うように、それはヴァシリの胸元で鈍く輝いて主張していた。
「あれ、頭巾ちゃんそれ、指輪?」
不意に気配が現れる。白石だ。この男は脱獄を得意としている事もあってか気配が薄い。ちら、と彼に目をやってヴァシリはまた正面に視線を戻した。
そもそも日本語は殆ど解しなかったし、解したとしてもどの道発声出来ない自分にはその疑問に答えを返す事は能わないのだから。
「えーなになに?故郷に良い人でもいんのぉ?」
だというに、この白石という男は構わずに更にヴァシリに絡み出す。鬱陶しい。
「どんな娘?描いて描いて」
良い加減払い除けようとした時だ。
「……ヴァシリ!?」
「っ!?」
聞き慣れた声。
振り返るとナマエがいた。
***
あれよあれよという間に白石によって、一同の前に引き出されたヴァシリとナマエの上を無遠慮な好奇の目が行ったり来たり。
「えと、なにかな、これ……」
困惑しきりのナマエにヴァシリも状況を説明したいが出来ない。仕方なく月島に手招きをする。こそこそと筆談でナマエと自身との関係を説明する。一瞬月島の目が見開かれてそれから言葉を選ぶようにその内容が彼らの言語へと変わる。
「あの、ヴァシリ……どういうこと、なの?というか、なんで日本に……」
それを聞きたいのはこちらも同じである。ジェスチャーと走り書きでその旨を伝えるとナマエは首を傾げて口を開く。
「日本に販路を拡げようと思って」
商魂逞しいとはこの事である。
「頭巾ちゃんの婚約者ぁ!?」
驚愕の声が上がる。どうやらヴァシリの話が一同に伝わったようだ。尚も状況が飲み込めていないナマエに好奇の目が一気に集まる。特に白石が強い。輝くような視線に流石にナマエも気付いたのか、彼女は首を傾げて白石に向き直った。
「オレ、白石由竹です!彼女はいません!」
「???」
日本語では伝わらないので当然なのだが、ナマエは首を傾げながらも差し出された白石の手を握る。柔らかな手の感触に白石は昇天した。面白くないのはヴァシリである。さり気なくナマエの肩を抱いて白石から引き離すが、それをアシリパが見逃すはずが無い。
「頭巾ちゃんも隅に置けないじゃないか」
ニヤニヤと肘で突かれる。鬱陶しい事この上ない。ナマエはナマエで折角の行商のチャンスだからと鯉登相手に露店を始めている。
「ふむ、これは何だ?」
「これはキツネの毛皮です。若い雌でフワフワなのでオススメです」
「フワフワ……」
月島の通訳を挟みながら、ナマエは太客鯉登にあれこれと商品を売り付けていく。というかナマエがいつも売っている相場より高い気がする。…………暴利を貪っている。
「………………」
久しぶりに会ったというのに、己に割く時間が少なくはないか?面白くなくて、ヴァシリはそっとナマエの肩に触れた。
「……?なあに、ヴァシリ」
振り返ったナマエのグレーの瞳を見ていたら、急に居ても立っても居られなくなって、ヴァシリは彼女の手首を握って引っ張る。足早にその場を離れれば誰からともなく冷やかすような口笛が聞こえた。
「ヴァシリってば、どうしたの?」
一行から離れた所で足を止める。振り返ればナマエは少し息を荒らげていた。いつも歩調を合わせて歩いていたのに今は加減もしなかったからだと思うと、少し居心地が悪くなった。だがナマエはそんな事気にした素振りも無く、ヴァシリの青い瞳を覗き込むように見た。
「まさか日本に居るとは思ってなかった。最後に手紙をくれた時は国境警備隊をしているって書いてあったから」
ナマエに言うかは迷ったが、ヴァシリは手元の紙に殴り書きする。如何してここまで来たか、なぜ話せないか。ナマエはゆっくりとその書き付けを読むと、へなりと眉を下げた。
「…………痛くない?」
細い指が口許の覆いを取ろうとするので止める。見せたくはなかった。女が見るには痛々しい傷だし、何よりこれは敗者の証だからだ。それなのにナマエの手はヴァシリの制止を掻い潜って覆いを取った。
「っ…………」
明らかに悲しそうな顔をするから、だから見せたくなかったのだとまた覆いをしようとしたら、それを押し留められて口許に温い感覚が降った。ナマエが傷口に唇を当てたのだ。
「怪我しないでって、本当は言いたいけど……。そんな言葉でヴァシリを縛りたくないから」
この仕事が終わったら、暫くは何処にも行かないつもり。ロシアで待ってるから、早く帰ってきてね。
囁くように落とされた言葉に心臓が掴まれたように痛む。帰りたいのは山々だ。その気持ちが顔に出ていたのだろうか。ナマエが期待したように目蓋を下ろしたのが見えた。
強く掻き抱いたナマエから、ヴァシリが好きな匂いが香る。重ねられた唇の柔らかさは、彼がロシアにいた時と変わってはいなかった。
コメント