煤けた空気が一呼吸ごとに肺を汚していくのが分かる。吹き飛ばされて前後不覚に陥って天地左右も分からなかったが漸く、上下の感覚の程ははっきりとしてくる。辺りを見渡して、江渡貝の状態を知って、俺は俺が思っているよりも状況が悪い方向に向かっている事を悟った。
「うう……、つきしま、さん……」
呻く江渡貝のか細い声は幾つもの瓦礫の下から聞こえてきて、俺はあの戦場を瞬き一回の間思い出した。同じ無力感だと思った。傍らで消えゆく生命を掬い上げる力は俺には無いと、また痛感させられるだけだった。
「しっかりしろ、江渡貝!今、出してやるから!」
俺の言葉が到底無理な話である事ぐらい俺が一番よく分かっていた。当事者でない俺が分かっているのだから、実際瓦礫の下に閉じ込められた江渡貝は尚更だろう。どう考えても、江渡貝を助けていては共倒れだと俺は気付いていた。だがそれでも、彼を掬い上げる試行をせずにはいられなかった。
瓦礫の下に肩を入れて押し上げようとするが、全く息が続かない。こんな作業など訓練で幾らもしているはずなのに、悪い空気が肺を汚し、俺の体力を削り取っていた。息をすればするだけ追い詰められるこの状況に叫ぶのは最悪手だと分かってはいても江渡貝を鼓舞するにはこの騒音の中では叫ぶしかない。
「大丈夫か!?江渡貝!!」
「……ねえ、月島さん」
俺の声を遮って聞こえた声は俺の物より随分と静かで、酷く落ち着いていたにもかかわらず轟音を切り裂いてよく通った。凪いだ声はまるで自分に起こった事を全て受け入れるかのように平坦だった。それは諦めとは少し違う、死を受容したような、覚悟に満ちた声だった。江渡貝が次の言葉を吐くために吸った呼吸音は逆巻く喧騒の中で静かに響いた。
「ボクはもう、駄目なようです。……瓦礫に足を潰されて、出られたって歩けそうにない」
「江渡貝!喋るな、余計に苦しくなるだけだ!」
「月島さん!!」
鋭い声にはっとした。この男がこれ程までに意思の強い、力強い声を出せた事を俺は短い共同生活の中で終ぞ知ることは無かったのだと、「終わり」に直面して初めて思い知った。江渡貝は俺が動かしたせいで僅かに出来た瓦礫の隙間から身を捩って何かを差し出した。それは鞄であった。
「鶴見さんに、これを。ボクの作品、鶴見さんならきっと使ってくれる。……嬉しかった、ボクを認めてくれて、こんな、ボクを……」
託された鞄が重い。軍人になって今まで何度も背負ったその重さに、俺はいつまでも慣れる事が出来ずにいた。煤煙と爆発の余波がすぐそこまで迫ってきている。ここももう、危うい。鶴見中尉に江渡貝の作品を届けるためには俺は江渡貝を見捨てなければならない。しかしそれは。
不意にあの少女の顔が浮かんで消えた。
あの少女から、俺は奪うのだ。大切な家族を。奪われた俺が、奪うのだ。俺からあの子を奪ったあの男と同じ罪科を俺が。
「つきしまさん……、」
痛みなのか、或いはもっと別の外傷性のショックなのか、次第に江渡貝の声は輪郭を喪っていく。伸ばされたその手を掴んで揺さぶる。ここでこうしていたって仕方が無いのに、どうにもならないのに、俺の足はまだ動かない。
「ねえ、お願いが、あるんです……。なまえが、廃線になったトロッコ置き場に隠れてる。あそこは、なまえが母さんから隠れる時よくつかってたんです、」
要領を得ない江渡貝の言葉に彼の手を握る俺の手に力が籠る。今この場でするべきはお前を助ける事で。
「だから、迎えに行ってやって欲しいんです。……本当はボクがいくと約束したけれど、ボクは、もう、だめだから」
「江渡貝!しっかりしろ!」
「なまえに、つたえてください。……だめな兄で、ごめんって。やくそく守れなくてごめんって。……あいしてるって」
譫言のような言葉を最後に瓦礫の下からは何一つ声が聞こえなくなる。俺の手の内の温度も心なしか冷たくなっていく。その手を離しても、もう言葉も力も何も返っては来なかった。噴出する煤塵混じりの煙が密度を増して俺の思考力を奪う。ぐらつく視界に奥歯を噛み締めて、俺は江渡貝に背を向けた。一度だけ、名前を呼ばれた気がしたけれど振り返る事は出来なかった。振り返ればきっと俺は、僅かな可能性に縋りついて全てをふいにしてしまう気がしたからだ。あの青年を、あの少女を、兄妹の慎ましやかな幸福を俺が壊したのだという罪科から逃れたいという思いばかりが先走って。
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