私たちの共同生活は、思っていたよりも上手くいっているのではないかと、今になって私は思い始めていた。兄さんも私も「普通ではない」にもかかわらず、月島さんたちはそれにとやかく言うことは無く共存の姿勢を見せてくれたし、私たちも久しぶりの異物の気配を受容して日々を過ごしていたのだから。
さわさわと吹く風が、私と月島さんの間を吹いて抜ける。その時にふわりと煙草の香りがして手許の本に落としていた視線を気付かれないように、月島さんに向けた。視線の先の月島さんは爽やかな風に心なしか気持ち良さそうに目を細めて、咥えていた煙草を唇から離し、紫煙を吐き出していた。
煙草を挟む手は、兄さんのそれとは違ってごつごつして骨張っていて、男の人の物のようだ。父と兄以外の男の人をほとんど知らない私にとってみれば、月島さんは十分に興味深い観察対象であった。だからこんなに気になってしまって、こんなに彼の事を盗み見てしまうのだろう。怪しまれないように読んでもいない本の頁を一枚捲って、私は静かに月島さんを観察する。
私の視線に気付かない月島さんはぼんやりと、遠くを見ていた。何を考えているのだろう。兄の事だろうか?それとも兄に頼んだ仕事の事?それとも。
その可能性に至った時、急にぎゅう、と胸を掴まれたような気になった。物理的な身体の不調ではない。それでも、痛くて苦しいと思った。彼が、任務を終えて上官の許に帰った後の算段をしている可能性に思い至った時に。
私は勘違いしていたようだった。この、少しばかり鬱陶しくて、でも、初めて与えられた緩やかな時の流れが永遠に続くのだと。兄と私の二人しかいなかった歪な世界に初めて現れた第三者は、私たちの保護者でも何でも無いというのに。
私はきっと、初めて「頼る事の出来る大人」を見付けてしまって、それに甘えていただけなのだ。歪んだ私たちに「歪んでいる」と指摘しただけのその人に。ああ、私は彼に何を期待していたのだろう。彼にとって私は兄の妹でしかないというのに。
「どうした?」
はっと意識を取り戻せば、私は月島さんを見つめたままぼんやりとしていたようだった。実際は見つめていた訳では無いけれど、視線を向けられて月島さんは困ったように目を細めていた。
「い、いいえ。何でもないです」
「何でも無くは無いだろう。俺の顔に何かついているか?」
不可解な表情で私を見る月島さんに、どう言えば見逃してもらえるかそればかりを考えた。口が裂けても言えなかった。彼が、帰ってしまう事が寂しいだなんて。
「…………煙草の匂い、」
「は……?」
「た、煙草臭いって思っただけ!」
ふと、目に入った月島さんの指に挟まれた煙草が目に入ってそれを指差す。折角良い言い訳を見付けたのに、月島さんが少し疑わしそうな顔で私を見るものだから、私の顔は不自然になっている気がした。頬が熱くて、目を逸らしたくて堪らないのは、彼の目力が強いせいだ。それでも負けたくなくて、頑張って目を逸らさないように月島さんの顔を見ていたら、彼はふっと表情を緩めて咥えていた煙草を地面に落として踏み消した。
「……それは失礼」
「……!どうして笑うんですか?」
馬鹿にされたような気がしてむっと唇を尖らせれば、月島さんは緩めた表情を元に戻さずに私の頭にそっと手を乗せた。乱暴に揺すられるように頭を撫でられたと気付いた時には彼の大きな手は離れていて、ああ、残念だな、と少し思った事を恥じた。
「何するんですか……」
「いいや?子どもは素直になった方が可愛げがある」
大人の優位性を隠そうともしない月島さんに悔しさが募る。子どもという言葉にも、私が強がったって意味無い事にも。「子どもじゃありません」と憮然とした表情を隠しもせず、月島さんを睨むように呟けば穏やかな顔で「そうだったな」と返された。
「馬鹿にしてるんですか?」
「いいや、俺から見ればお前も江渡貝も子どものようなものだ」
「……月島さんて私が思ってたよりも年寄りなの?」
精一杯の憎まれ口も彼には意味を成さないらしい。月島さんは可笑しそうに肩を竦めてそれからポケットからもう一本煙草を取り出してマッチを擦る。焦げた匂いがしてすぐに独特の煙草の匂いが鼻に付く。
「煙草臭いって言いましたよね」
「だがこれを吸っている間は君の話を聞いてやれる」
「……!き、聞いて欲しいなんて言いましたか!?」
心臓が走った後のように痛い。全身が熱くて掌にじっとりと汗をかいているのが分かる。私は一体どうしてしまったというのだろう。ともすれば心の内が緩んでしまう気がする。今まで誰にも見せたいと思わなかった私の内側を。
「聞いて欲しそうな顔をしていたと思ったんだがな」
「…………たとえそうだったとして、私は月島さんが女の話を理解できるとは思えないですけど」
「ふ、違いない」
可笑しそうに声を上げて笑った月島さんは私の椅子の隣の地面に腰を下ろすと、煙草の灰を脇に落として私を見上げた。その顔を見つめ返せば彼は穏やかな表情を崩す事無く口を開く。
「それなら女の話が理解できない俺にも、理解できるような話をしてくれないか」
「……じゃあ、今日の夕食の話は?」
「悪くない。君の作る料理は中々だ」
お世辞にも満たない言葉が私の感情を揺さぶっている事に、きっと彼は気付いていないのだろう。私だって信じられない。だったらさっさとこの感情に蓋をしてしまった方が楽に違いない。普通とは程遠い私が、普通の女みたいな生き方を望むべくもないのだから。
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