荷物となまえさんの手を携えて彼女の家に戻ってきた俺だったが、家に入る直前で、なまえさんは俺の手をさり気なく解いた。振り解く訳でもないのに、気付いたらなまえさんの手は俺の手の内から消えていて、そして彼女は自分の手を守るように胸の前で握った。
「荷物、ありがとう」
「これくらい、安いものです」
何事も無かったように振り向いて微笑むなまえさんに頷きながら、俺は先ほどの出来事は全て無かった事になってしまったのだろうかと少し、目を細めた。なまえさんは本当に、何事も無かったかのようにそこにいた。俺の手の内には未だに、柔らかな温もりが残っているというのに。
まあ、本当のところは分かっている。当然と言えば当然なのだ。彼女の家には女中がいる。いくら彼女が現在の家の主人だったとして、やはり戦争で夫を失ってすぐ、他の男に手を取られて家に帰るのは余計な憶測を招くだろう。当然だ。俺はもう、誰に何を言われたところで痛くも痒くもないが、なまえさんは違うのだ。それをうっかり、忘れていた。
玄関扉を開けるなまえさんは俺を振り返って微かに笑った。俺をどうすれば良いのか迷っているような笑みだった。そしてその問いに答えが出る前に、家の奥から足音が聞こえた。
「あらあら、奥様、またですか」
仕方無さそうな声で笑う女中が奥から出て来て俺の腕の中にある荷物に目を止める。なまえさんも困ったように眉を寄せる。
「ええ、ついつい買い過ぎてしまうわ。本当にもう、節約しないといけないのにねえ。途中で百之助ちゃんに会わなければ車屋さんを呼ぶしか無かったかも」
「本当に、持って帰られるのも一苦労でしょうに。次からはわたくしが行きますわ」
「あら、女主人の数少ない運動の機会を奪わないで頂戴な。週に一度のこの買い出しが無ければ私もっと大変な事になっているわ」
くすくすと微笑ましそうに笑う女中だったが俺を見る目付きは不信そのものだ。抱えた荷物を女中に渡す時なんて、なまえさんに見えないからと言って俺の事をあからさまに睨んでいた。まあ、これも当然。なまえさんはこの女に好かれているようであったから、悪い噂が立つ事から彼女を守りたいのだろう。
「……帰りますね」
不信の視線から逃れるように俺は踵を返そうとした。なまえさんと別れるのは惜しいが、今日は仕方無い。今度は彼女を連れ出してみよう。流石に外出先にまでこの女はついては来ないだろう。そう考えていた。あんな視線如き堪えもしない。あんな視線如き堪えていたら、俺はいつまで経ってもなまえさんを手に入れられない。
「あら、帰ってしまうの?ご飯を食べて行って頂戴。もうずっと独りで食べているから誰かとご飯を食べたくて仕方ないの。ついでに泊って行きなさいな。また、雨も降りだして来たわ」
そう言われて空を見上げた。確かに、空は泣き出して、傘も差さずに帰るには少し面倒だった。別に、本当は、傘なんて無くても帰る事は出来るし、無理を言ってまた、それを借りて帰る事も出来た。それでも、その申し出は俺の感情を上擦らせる。
「まあ、奥様……。この方はお忙しくていらっしゃるのでは?」
咎めるような、だがどちらかと言えば不服そうな女中の声がしてなまえさんは残念そうに肩を落とした。それを見た女中がほっとしたように笑う事が苛立たしくて、俺は何も考えずに頷いた。帰らなければいけないような気はしたが、足掻かなければいつまで経っても俺はこの人の視界に入らないという確信の方が強かった。
「ご厚意に、甘えても構いませんか。生憎、俺は傘を持っていませんし、また今日のように傘を返す事が出来るのがいつになるかも分からないので」
「ええ、勿論」
嬉しそうに綺麗に笑うあなたは狡い。俺の気持ちを知ってなお、あなたは俺を家に上げ、剰え一夜の宿を与えるのだから。
きっと俺がもう、「男」であるという事など考えもつかないのだろう。俺が本気になれば、あなたをこの腕の中で啼かせる事など容易いというのに。あなたが明日も清らかなままでいられるかどうかは俺次第だというのに。信頼されているのか、或いは見くびられているのか、全く、いやはや。
苦々しい想いが胸に広がるがそんな事、なまえさんは思ってもみないのだろう。彼女の中で、きっと俺はあの少年の日からまだ、一日たりとも成長していなくて彼女はただ、昔彼女を好いていた少年を家に呼んだに過ぎないのだ。だからそんな、あの時のような顔で、俺の感情を揺らす事が出来るのだ。
俺がまだ彼女の中で大人になっていない、全てはそれだけなのだ。
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