その手に抱くもの

案内されたのは再会した場所からあまり離れていない、それどころか俺の宿舎からもそうは離れていない一軒家だった。

「あんまり、掃除も行き届いていないけど、」

恥ずかしそうに笑うなまえさんだったが、その実家の中は実に綺麗だった。まるで、「誰も住んでいない」みたいに。

玄関には俺となまえさん以外の靴は並ばなくて、「あの男」は何処かに出かけているのかと、俺は勝手に結論付けた。

「あらあら、奥様、お客様ですか?」

家の奥から女中が出て来て、女中がいるくらいにはなまえさんの生活は安定しているのかと知って少しばかり安堵してしまった俺はやはりあの「美しい思い出」から逃れられないのだろう。

「ええ、私がまだあの人と一緒になる前から知っている人よ。偶然再会してしまってつい、お招きしてしまったわ」

くすくすと微笑むなまえさんの白い頬が薄く色付いて、ああ、やはりこの人は「俺のなまえねえさん」なのだと気付いて嬉しいような悲しいような微妙な気持ちを抱える。促されるままに、客間に通されて卓に着いた俺たちだったが、なまえさんは暫く何も言葉を紡がなかった。

「言いたい事、いっぱいあるでしょう」

やっと紡がれたその言葉は俺の感情を撃ち抜くには的確過ぎた。今まで抱えていた全ての想いを吐き出してしまいそうになるくらいには。

「……俺が、あなたに何も言われずに捨てられて、どれだけ絶望したか、きっとあなたは知らないでしょうね。……俺だって、言葉にはきっと出来ません」

いつかもう一度なまえさんに逢う事が出来たら、そんな叶うはずも無いと思っていた癖に言いたい事を俺は沢山溜めていた。そのはずなのに、言えたのはそんな馬鹿みたいな恨み言だけで俺はそれが悔しくて目を細める。

「ええ、でも、私、百之助ちゃん、あなたに何も言わなかった事、後悔してないの。言えばきっと、私はあなたを置いて行く事が出来なくなってしまったと思うから」

なまえさんは想い出を懐かしむように目を細める。その目には隠し切れない隈があって、彼女の顔をあの頃より年嵩に見せた。勿論俺も歳を取っていて当然それは自然の摂理なのだけれど、俺にとってなまえさんは「あの頃」のなまえさんだけであったから、それは随分と奇妙な変化に見えた。

「兄さんにはね、あなたに一言でも何か言って行けって言われていたの。でも、家を捨てようとする女がそうやって赦しを得るような行為はしたくなくて。何もかも、赦して欲しくなかった。私はもう二度と、『何があっても』あそこには帰らないって決めていたから」

微笑むなまえさんはもう少女では無かった。「あの頃」の屈託の無さは消えて、清純さよりも艶やかさの勝るようなそんな女性になっていた。

「俺は、本当は今でもあなたの事もあの男の事も許してはいません。でも、あなたよりも、あの男の方が許せない。……俺だったんですよ。あの夏の日に、あなたの家の前に花を置いたのは」

奇術の種明かしをするような気分だった。ざまあみろと思った。嘘を吐くような男と一緒になって。それなのに、なまえさんはただ、笑っていた。

「ああ、やっぱり、そうだったのね。いつかあの人が言っていたの。『あの夏の日の事で本当の事を言いたいんだ。僕は嘘吐きだった』って。何となく、そんな気はしていたの。でも、あの頃の私はそれすらも愛おしく見えていたのかしら」

感慨深そうに伏し目がちに笑うなまえさんに俺はもう何も言えなかった。この人は確かに、俺では無い他の男のものになってしまったのか、と思って。それでも僅かに余地を残すところが、このひとの狡いところだ。

「それでも、ねえ、百之助ちゃん。私時々思うわ。あの時にあの人の手を取らずに、あなたがあの花を置いてくれたとあの時に知る事が出来たのなら、私は何か変わっていたのかしらって。…………あの人は、死なずに済んだのかしらって、」

「……死んだ?」

「ええ。……先の戦争で。あなたも従軍したのでしょう?あの人ね、軍医になったの」

手投げ弾の直撃を受けたって、聞いたわ。帰って来たのは人差し指の骨だけだった。

なまえさんの伏せた目はきっとあの男を見ていた。俺には見えないあの男の想い出を見ていた。震える身体は頼り無く、それでも微笑むかんばせは彼女の寂しさを増長させた。

俺は、また自分の感情が分からなくなりつつあった。これはなまえさんを得られる機会なのか、それとも彼女を永遠に失ってしまう岐路なのか、判別しかねたからだ。でも、これだけは分かった。

俺は漸く、返してもらえるのだ。俺の、俺だけの「なまえねえさん」を。

「そちらに行っても構いませんか」

俺の向かい側で寄る辺なく座るなまえさんは、微かに頷いた。俺は静かになまえさんの隣に座って彼女と向かい合う。小さな身体だと思った。出会った時は、あんなに頼もしくて安心出来たのに。今は俺が安心させてやらなければ、という気持ちにさせられる。

「そう言えば、以前『宿題』を出されましたね。俺なりに答えを出してみました」

「……ああ、そんな事も言ったわね。教えて頂戴、あなたの答えを」

優しく微笑むなまえさんの手を握る。それから俺はその小さな身体を引っ張って、俺の腕の中にゆっくりと収めた。呆気ないくらい簡単に収まったなまえさんの耳許で囁く。

「俺が弱音を吐けるのは、どうやらあなたの腕の中だけのようです」

腕の中、なまえさんが身体を硬くしたのは果たしてどちらの意味なのだろう。

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