その罪科を汝は知らぬ

優しい使用人たち、優しいお父様、優しい兄様。お母様はいらっしゃらなかったけれど、私はそれでも幸せだった。勿論寂しい時はあったけれど、そんな時はいつも兄様が頭を撫でてくれたから。

「可愛いなまえ、君は母上にそっくりだよ」

優しい顔で兄様にそう言われる度に私は顔も見た事の無いお母様に想いを馳せ、胸に感じる僅かな悲しみを誤魔化すように兄様に抱き着く。兄様の温もりはきっとお母様に似ているのだろう。柔らかくて、あたたかくて、少し悲しいその温もりを、私は写ししか知らなかった。尤も写ししか知らなければそれが本歌に取って代わるのだろうけれど。

「どうしたんだい?」

悲しみが胸の内から溢れてきてぎゅう、と兄様の胸に身を預けて滲む涙を零さないように目を見開く私を、兄様は仕方無さそうに笑って抱き締めてくれる。兄様の香りを胸に一杯吸い込んで、そして少しだけ耐え切れなくなって涙が零れた。寂しかった。お父様の部屋の前を通った時に聞いてしまったのだ。兄様に許嫁を見繕うお話。もう何年かすれば正式な許嫁として兄様とその人は目合わされてしまう。悲しかった。お母さまだけでなく、兄様まで失ってしまうのは。

「泣かないで、なまえ。何があったのか言ってご覧。悲しい事があったのかい?……もしかして、誰かに虐められたのかい?」

不穏な顔をする兄様に首を振る。何も言わない兄様は私の言葉を促すように私の髪を梳いて、未だに涙を零す私の眦にそっと唇を落とした。

「なまえに涙は似合わない。僕の可愛いなまえ、いつも笑っていて」

優しく響く兄様の声に目を伏せる。兄様は綺麗に優しく微笑んで私の頤を骨張った指で持ち上げる。

「忘れないで。なまえは母上の生まれ変わりなのだから。君の母上はいつも笑っておられた。僕も父上も母上の美しい笑顔が大好きだったんだ。勿論君の可愛らしい笑顔も」

穏やかな顔の兄様は困ったように苦笑しながらポケットから取り出した手布で私の目許を拭う。優しく拭われる雫を感じながら、それでもその優しさに新しい雫が生まれてしまう。何を言葉にして良いのか分からなかった。お父様の話を盗み聞きしたなんて言ったら、兄様に呆れられてしまうかも知れないと思った。

「あの、兄様、私……」

「言ってご覧、なまえ。どんな事だって君の事なら知りたいと思う」

大きくて優しい手がそっと私の頬を撫で背中に回った腕が私を引き寄せる。愛しい人にするような抱擁を受けて悲しみで硬くなっていた感情が僅かに融解する。兄様、何処にも行っては嫌。

「なまえ?」

促すような兄様の言葉に我慢なんて出来なかった。私の軽い口はぺらぺらとお父様の部屋で盗み聞いた兄様の縁談の話を紡ぐ。兄様は最初少しばかり驚いたような顔をしていたけれど、私が話し終わる頃には眉を下げて寂しそうに「そうか……」とだけ呟いた。

「いつかは、と思っていたけれど、実際に直面するとやっぱり心の準備なんて出来ないものだね」

困ったように笑う兄様の顔に嫌な想像が駆け巡る。見も知らない女の人が兄様の横に立って、兄様の事を一番知っているように気取った顔でいる、そんな想像。嫌だ、兄様の一番は。

「兄様……」

「どうした、なまえ?」

気付いた時には兄様の大きな背中に手を回して身体を押し付けていた。不思議そうな顔で私の顔を見る兄様だったけれど私を引き剥がすような事はしない。本当はこんな事したらばあやは厳しく私たちを怒るだろうけれど、ここにはばあやもいない。だってそうだ。ここは私だけの秘密基地、母屋から少し離れたところにあるもう使われていない離れの一間なのだから。

「なまえ、兄様のお嫁さんになるわ。そうしたら、兄様とずうっと一緒に居られるもの」

「……なまえ」

「ねえ、兄様。なまえを兄様のお嫁さんにしてください。ずっと一緒にいられるように」

密やかに囁く私の声に兄様は私の顔をじっと見た。それは初めて見る兄様の顔だった。大人びた、「男の人」と呼べるような顔。その顔にどきどきと私の心臓は早鐘を打って、頬も熱くなる。それでも兄様の目から目を逸らしたくなくてじっと見つめれば、兄様は途端に破顔した。

「それは素敵な考えだね!僕もなまえとずっと一緒に居たい」

兄様は私を抱き上げて、ぎゅうと抱き締める。頬に落とされた兄様の唇にくすくすと笑ってから、真似をするように兄様の頬に口付ければ兄様も密やかに笑って人差し指をぴんと立てて唇に近付けた。

「この事は誰にも内緒だよ。勿論父上にもね」

頷くあの頃の幼い私に教えてくれる大人は誰もいなかった。それは禁忌だと、許されない事なのだと教えてくれる大人はいなかった。いいや、もし教えられていたとして私は耳を貸しただろうか?それは幼くて同じ悲しみを抱えた私たちだけの秘密の約束だったのだから。何も知らなかった、知ろうともしなかった私たちの、否、私の罪科だったのだから。

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