なまえねえさんはいなくなってしまった。あの男と共に。俺には何も告げられなかった。
カケオチドウゼン
大人たちの噂話を盗み聞いて俺はもう、なまえねえさんは帰ってこないのだと悟った。俺はまた捨てられてしまったのだと。じわじわとやっと生まれ始めていた感情が黒く濁っていくのを感じる。やっぱり、やっぱりあのひとは「大人」だった。嘘を吐いて俺を殺す、汚くて狡い「大人」だった。
なまえねえさんを失くして俺はまた、一人で息をしなければならなかった。俺は再びに寄る辺ない荒野に投げ出されて生きていく術を見つけなければならなかった。
「百之助……」
それでも気遣わしげに俺の背を撫でるバアチャンを心配させたくはなかった。俺は首を振っていつものように鳥撃ちに出かけた。なまえねえさんの家とは反対方向に。
季節はいつの間にか秋になっていた。
静かに草むらに隠れて、獲物に狙いを定める。もう随分と風も涼しくなっていて、俺の頬を撫ぜるその指先は冷たささえ見せていた。その温度が俺にいつかのなまえねえさんを思い出させて、俺の心臓は可笑しな具合に上擦った。きっとそれを野鳥たちも感じ取ってしまったのだろう。あ、と思った瞬間にはもう、奴らは飛び立っていて、俺はただ独り草むらに馬鹿らしく潜んでいた。
(…………、)
苛立たしさに僅かに舌打ちをして猟銃を傍に置く。どうしても続きをする気になれなくて俺はゆっくりと、仰向けに、草むらに横たわった。草いきれと太陽の匂いが鼻腔を擽ってきっと清々しい気分だったろう、なまえねえさんがいたのならば。
なまえねえさんはもういない。あのひとは俺とあの男を天秤にかけて、そして、俺じゃなくて、あの男を選んでいなくなってしまった。俺はまた独りだ。でも大丈夫、最初に戻っただけだから。俺は最初から独りだったんだ。ただ一時、なまえねえさんが俺の世界を色付けてくれただけで。
大丈夫にならないといけないんだ。だって、なまえねえさんはもう、帰ってこないんだから。
「……っ、」
「それ」を自覚して揺れる俺の視界のなんと意気地ない事か。俺は、俺の世界の半分を喪ってしまったような気がして、眦から溢れる雫の煩わしさが悲しかった。俺のなまえねえさんは死んでしまった。もう二度とあの人に会えない、そう思ったらどうしようもない程に悲しくて苦しかった。
まだ、話していない事も聞いて欲しい事も沢山あって、言ってない事も言わないといけない事もあったのに。一緒に花見に行く約束だってしたのに。
あなたはいなくなった。
あなたにとっては、他愛も無い約束だったのかもしれませんね。でも、俺にとってはそれだけで生きていけるくらい綺羅綺羅と輝いた、美しい約束だったのですよ。きっと、あなたは知らなかったでしょうがね。だから俺を置いて行く事が出来たのでしょう?
暗く、昏く、硬くなっていく俺の感情を殺すために、俺は少しだけ、ほんの少しだけ泣いた。もう二度と、あの柔らかな微笑みに出会えないのかと思うと、いっそのこと、死んでしまった方がマシなのでは無いかとすら思った。
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