借りた傘はすぐに返しに行こうと思ったのに、雨が幾日も降り続いたせいで返せなかった。俺は生憎傘なんていう高尚なものは持ち合わせてはいない。早く返しに行かなければ、と思う反面、六月の雨は俺の目論見を阻むようだ。
早くなまえさんの許にもう一度訪れないと、きっと彼女は俺を忘れてしまう。俺の感情諸共。それに、早くこの傘を俺から遠ざけないと、「なまえさんの大切な想い出」が俺の闇に染まってしまう。
この傘は眩しすぎるのだ。あの男となまえさんの細やかな想い出がきっと詰まっているのだろう。そんなものを長い間俺が持っていたらきっとここの、俺の澱みが移って独りになってしまったなまえさんを暗闇に引き摺り込んでしまう。
その反面、俺の足はどうしてもなまえさんの家には向かなかった。早く早くと気が急く一方で、どんな顔をして彼女に会いに行けば良いのか分からなかった。
幼い頃に僅かばかり共に過ごした、それだけの事で俺が彼女に執着するのを彼女はどう思っているのだろうと考えると、もう一度なまえさんの顔を見るのが酷く、恐ろしかった。
俺の一番綺麗な想い出に拒絶されるくらいなら、忘れられる方がマシだと思った。
***
結局俺自身の都合もあって、傘を返しに行く決心がついたのはあの雨の日から二週間も経ってからの事であった。
間抜けな事にその日は今にも降り出しそうな昼過ぎで、もしかしたら返した傘をまた借りる事になるかも知れない、などと俺は馬鹿な想像をしながらなまえさんの家の玄関先でおとないの挨拶をした。けれどもこれまた何とも間が悪い事に彼女は不在であった。女中曰く買い物に行ったという。
仕方なく、女中に傘を預けて俺はその足で街に向かった。彼女に会えるとも限らないけれど、もし会えたら、何でもない今日という日を俺は祝福できる気がした。
だが、そうは言っても小樽は広い。僅かでも期待した事を苦々しく感じながら俺は兵舎に帰ろうと踵を返す。所詮はそんなものだ。三流芝居のような「まぐれ」は二度も起こらない。また改めて彼女の許を訪れれば良い、そう思った。
「あら、百之助ちゃん?」
……、どうやら俺は本当に三流役者らしい。
道の向こう側から歩いて来た彼女に声をかけられるまで、俺は彼女に気が付かなかった。彼女の輪郭を思い出していたせいで注意が散漫になっていたせいだろうか。少し驚いたように俺を見るなまえさんの両手には買い物の帰りなのか荷物が沢山あった。女中の言葉を思い出す。
「なまえさん……。買い物ですか」
「ええ。たまには外に出ないとすっかり不健康だわ。百之助ちゃんは?いつもお仕事ご苦労様ね」
穏やかに微笑むなまえさんは俺を見て少し目を伏せた。そして荷物を抱え直すとそれからそれを少し探って何かを取り出した。
「これ、あげるわ」
「……、金平糖?」
色とりどりの星形の砂糖粒が包まれた袋はなまえさんによく似合っていた。俺よりも、ずっと。
「甘いものは嫌い?でも、疲れている時は甘いものが一番だもの」
「……疲れているように見えますか」
なまえさんの言葉に顔を痙攣らせれば、なまえさんは苦笑しながら「少しね」と言った。その顔は、やはり疲れているように見えた。
「これからまだ何処かに?」
「ううん、もう家に帰ろうと思っていたところ。荷物もある事だし、お手伝いさんを家に一人にしてしまっているし」
当然の事を馬鹿みたいに聞いてしまった事を苦々しく思いながら、俺は少しでもこの人と一緒にいるために彼女の手から荷物を奪い取る。
「持ちましょう。この量はどう見てもあなたには不釣り合いだ」
「重いから良いわよ」
「軍人をあまり舐めない方が良い」
困ったように俺から荷物を取り返そうとするなまえさんに首を振る。申し訳なさそうな顔をする彼女に俺は少しばかり考えてから片方の手に荷物を集約する。そして、もう片方の手で俺が持つ荷物を今なお取ろうとするなまえさんの手を握った。
柔らかな手に心臓が上擦った気がしたが無視した。何も感じないように気をつけながら彼女の手を握り込む。
「行きましょう。早くしないと、また雨が降り出してしまう」
俺を見るなまえさんの瞳は困惑して、揺れていたけれど、彼女は俺の手を振り払うことなくゆっくりと頷いた。
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