「ほら、なまえ、ご覧。あの人が僕らの兄様だよ」
ある日突然に連れて来られた軍の建物の中で私にとってはまだ見慣れない軍服を纏い朗らかに笑う兄様の指差す先には知らない男の人がいた。兄様とは違って少し怖そうなその人が私たちの兄様だと勇作兄様は言っているのだろうか?どういうことだろう。私はあの男の人を見たこともないし、お父様が私たちにはもう一人兄様がいると言っているところを聞いたことも無い。
「そうなのですか?でも、なまえの兄様はずっとずっと勇作兄様しかいなかったわ」
純粋な疑問を口に出す私に兄様は困ったように微笑む。
「兄様は理由があって僕らとは一緒に暮らせなかったんだ。でも僕らとは確かに血の繋がったきょうだいだよ」
「どうして?どうして家族なのに一緒に暮らせなかったのですか?」
「……どうしてだろうね。家族だったのにね」
私の疑問に兄様は答えることなくただ眉を寄せて微笑む。それから私の手を握ると「おいで」と私を誘いその人の方へ歩いて行く。少し早足の兄様に私も小走りになってしまう。
「勇作兄様、待ってくださいな」
「ほら、なまえ。早くしないと兄様が行ってしまう」
弾んだような兄様の声が珍しくて私も嬉しくなってしまう。兄様は優しくて、優しすぎるせいでお父様からよく叱られていたから屋敷ではいつも顰め面ばかりなのだ。そんな兄様がこれ程感情を露にするのは珍しくその引き金となったその人に私は少しばかり親近感を覚えた。
「兄様、」
少しの距離を小走りで走り寄り、嬉しそうにその人に声をかける兄様の背中に隠れて様子を窺う。その人は呆れたように一度肩を落とすと、ため息交じりの声で振り返った。
「……少尉殿、何度も言いますが規律が、」
「兄様、僕の妹のなまえです。なまえ、御挨拶しなさい」
「もう一人の兄様」の言葉を遮ってにこにこと本当に嬉しそうに笑う勇作兄様に私も微笑む。その人は目を細めて私を見ていた。少し困ったように寄せられた眉が不安だったけれど勇作兄様の大きな手が私の背中に添えられてそれに勇気を貰う。
「初めまして、なまえです。勇作兄様からもう一人の兄様だとお聞きしました。……そうなのですか?」
微笑んでみたけれど、その人は微笑み返してはくれなかった。ただ困ったように後頭部に手をやり、僅かばかりため息を吐く。
「少尉殿。俺は貴方の兄様でも何でもない一介の兵卒です。第一、『このようなこと』をしたら父君が良い顔をしないのでは?」
「父は関係ありません!僕にとって兄様は兄様です!なまえにとっても。なあ、なまえ?」
「はい!勇作兄様の兄様はなまえの兄様!」
「ですから少尉殿、規律が緩みます。況してや妹君にまで俺などを紹介して……」
咎めるような声に勇作兄様はしゅんと項垂れる。「もう一人の兄様」が私たちを歓迎していないことは私にも分かった。それでも勇作兄様はすぐに嬉しそうに顔を緩めた。
「少尉殿、一応聞きますがどうしてそんなに嬉しそうなんですかね」
「僕はずっと年上の兄弟に叱られるのが夢だったので。また一つ夢が叶いました」
にこにこと明るい笑みを浮かべる勇作兄様に「もう一人の兄様」はため息を吐いて肩を竦める。それからす、と視線を動かして私の方を見た。視線が絡む。その瞳は真っ黒だった。
「なまえ、さん」
「はい!あ!『もう一人の兄様』はお名前は何と仰るのですか?」
「……尾形、百之助です。だが俺のことなど、」
「では百之助兄様ですね!」
ついつい嬉しくなってしまって百之助兄様の言葉を遮ってしまう。ばあやがいたら怒られてしまうだろうその振る舞いにも勇作兄様は優しいから怒らないでいてくれるのだ。私の頭を優しく撫でた勇作兄様は「これからはなまえも兄様と仲良くするんだよ」と言った。
「はい!」
「はあ……、父君からお叱りを受けますよ。少尉殿だけならまだしもなまえさんまでこんなところに連れてきて……」
「その時はその時ですよ。それに父はなまえには甘いからきっと許してくれます」
「……それが余計に悪い気がしますがね」
私たちを呆れたように見る百之助兄様に勇作兄様は嬉しそうに笑う。二人の表情は対比的だったけれど私は勇作兄様と同じくらい百之助兄様も好きになっていた。百之助兄様は大好きな勇作兄様を笑顔にしてくれる。私たちはどうしてだか家族なのに一緒に暮らせなかったけれど、これから今まで過ごせなかった「家族の時間」を一緒に過ごしていけば良いのだ。
私はそう思っていた。きっと勇作兄様も。
ずっとずっとそう思っていた。あの日までは。
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