僕の楽園

朗らかで高潔なその顔の裏側に潜む澱んだ感情を一体どれ程の人間が知っているのだろう。甘ちゃんの勇作には、隠し通すのは無理だと思っていた、しかしながら。勇作は俺が思うよりもずっと曲者であったらしい。当然と言えば当然だ。奴はなまえが生まれてから十数年、澱みに巣食う魔物を腹の内に飼い馴らしながら生きていたのだから。なまえにちら、とも気付かれる事も無く。

「兄様、何をお考えなのですか?」

不意に振り返った勇作が人好きのする笑みを浮かべて俺に話しかける。うっかり思考の迷宮に囚われていた俺はすぐに意識を勇作に向けたけれど、矢張り一瞬の不自然な間は誤魔化せない。そして勇作はその間を敏感に感じ取ったようであった。

「ふふ、兄様がぼうっとしておられるなんて珍しいですね。一体誰の事を考えていたのです?当ててあげましょうか?」

純真無垢な、否、無垢すぎる気味の悪い目で勇作は俺を見る。妙に迫力のある狂気染みた目は黒く、暗く、深淵のようであった。その深い闇に呑み込まれそうになる前に、咄嗟に視線を外す。勇作如きに、これ程までに及び腰になっている自身に腹が立った。

「何も、何も考えていませんよ。ただ昨夜、少し遅かっただけで……」

「兄様、嘘はいけませんよ。当ててあげます。兄様はなまえの事を考えていたでしょう」

形の良い唇が弓形に持ち上がって笑みの形に歪んだ。完璧な、完成されていると、かつての俺でさえ思っていた笑みの白々しさは今や、底冷えのするものとなって俺に向けられる。本当に、気味の悪い男だと背筋が僅かに粟立った。

「兄様もなまえの虜になりましたか?やっぱり、あの子は可愛らしくて魅力的ですからね」

うっとりと、まるで恋するような瞳で当然のように胸元からなまえの写る写真を取り出して、勇作はそれを日に翳すように透かし見つめる。写真の中で微笑むなまえの輪郭を、身体の稜線を愛撫するかのように一度なぞった勇作は、それからそれを大事そうに懐に戻して俺に向き直った。真剣な表情に俺も身構える。こいつのこの顔で碌な目に遭った事が無い。

「ねえ、兄様。なまえの事で兄様にお願いがあるんです」

透明で平坦な声。それでいて有無を言わさぬ響きを持っていた。世の中の人間がこんな男を「高潔」と呼ぶのは笑わせる。こいつはある意味でこの世の誰より食わせ者だ。

「ねえ兄様、聞いていますか?兄様、兄様ってば」

何も言わない俺に焦れたのか、僅かに不快そうな顔をして俺を見つめる勇作に渋々頷いて見せる。こういった手合いが捉えようによっては一番危険である事を俺は知っていた。

「……俺に、聞ける願いであれば」

「やった!兄様にしか叶えられない願いなのですよ!」

勇作は頬を上気させ、まだ幼さの残る無邪気な笑みを見せる。そして嬉しそうに俺の手を取ってぎゅうと握った。

「兄様、なまえを兄様の物にしてください」

言われた事の意味が一瞬理解出来なかった。俺の物?なまえを?勇作はそう言ったのか?

何も言わない、言えない俺に勇作は穏やかに微笑む。

「ねえ兄様。僕となまえはね、昔一緒になろうと約束したんです。誰にも秘密でしたけど、それは絶対の約束なんです。……でも、大人たちは許してくれなかった」

勇作のガラス球のような透明な光を湛えた瞳に僅かに剣呑な光が宿るのが見えた気がした。勇作は俺の手を取ったまま記憶を思い起こすかのように遠い目をする。

「ですから、何がいけなかったのか、考えたんです。僕となまえは想い合っているのに、この想いを阻むのは何だろうって。ずっとずっと考えて、考えた結論は、血の絆でした」

血の絆、特に世間からしたら僕らは完全に兄妹ですからね。

「どうしたら良いか考えました。なまえとずっと一緒にいられるにはどうしたら良いか。なまえは女だから、いつかは花沢の家を出て嫁に行ってしまいます。僕はそれが耐えられない。ずっと、なまえと、そして兄様と一緒にいたいんです」

幼子の駄々のように勇作は唇を尖らせて首を振る。そして俺の方を見た。期待に満ち溢れた、気味の悪い瞳で。

「だから、ねえ、兄様。お願いです、なまえを兄様の物にしてください。なまえが兄様無しでは生きていけないようにしてください。そうすれば、……そうすれば、不完全な僕ら三人は本当のきょうだいになれるでしょう?」

ああ、これが。これが勇作の企みであったのかと、眩暈がする気がした。だから勇作は、あの日俺となまえを引き合わせたのかと、俺は漸く気付いた、気付いてしまった。

「僕は本当に兄様となまえが大好きなのです。僕の世界に僕と兄様となまえ、たった三人さえいれば生きていける……!ですからどうか、」

眩暈が酷くなる、勇作の顔がぼやけていく、ここは、俺は、一体、何を、

***

「ぁ、っ……百之助、さま……っ」

なまえの控え目な嬌声にはっと、意識を戻す。どうやら僅かに集中を欠いていたようであった。汗ばむ肢体が絡み合ってそこから微弱な快楽が俺を襲う。何度か貪ったなまえの身体は思った以上に俺に馴染んで仕舞って悪くない。まるきり女の顔で俺の背に爪を立てるなまえの顔を見て、込み上げる笑いを誤魔化すのに苦労した。

なんだ、結局勇作の思う壺か。

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