元通りの世界

「もう奥様に近付かないでください!あなたがいては奥様に悪い噂が立ってしまう!」

なまえさんの家を訪れた帰り際、俺を追いかけてくる気配がして振り向いたらそこにはなまえさんの家の女中がいた。

俺に何か用かと思って目を細めてその顔を見たら彼女はただ一言鋭い言葉を吐いた。普通ならばその言葉に腹を立てるのかもしれないが、その言葉は俺を心底納得させた。一段高い所に置かれていたもやもやとした輪郭の無いものがすとん、と元あったところに落ちて収まったような気さえした。

そうか、それはそうか。夫を喪った女が一年も経たずに紹介もされていない男を家に上げるのはまあ、世間体は悪い話だ。俺はそういう事に興味など無かったが、世の中は女の貞淑さを美徳とするのだ。そしてそこから逸脱する女は排除される。なまえさんは、陰で何か言われてもおかしくないくらいには俺に心を許し過ぎたのか。

実際彼女は何か言われているのだろう。彼女の家からの帰り際、擦れ違う近所の住人の視線の色が変わってきている事に俺は気付いていた。俺が気付くくらいなのだから当然この女も。そして言うまでも無くなまえさんも。

瞳を動かして女中を見た。俺と絡んだ視線に怯んだように後退る女に薄く笑う。女は俺の笑みに何を勘違いしたのか顔を歪めて俺を睨み付けた。

「何が可笑しいのですか!」

「いいえ、失礼……、それは、なまえさんの願いなのですか?」

「ええ、そうですわ!あなたが家に来るようになってから、奥様は物思いに耽る時間が増えました!辛そうな顔をする時間も!あなたが現れてから奥様はとても苦しんでいらっしゃいます!」

それがたとえ嘘であったとしても殴られたような衝撃に、俺は何も言えなかった。無言の俺を女中は苛立ったように睨むと踵を返して元来た道を走って戻って行った。俺はその背中をじっと見てからやはり同じように踵を返した。

歩いていて考えるのは、なまえさんの事ばかり。そうか、俺がいるのはなまえさんの迷惑なのか。まあ、やはりそうだろうな。見ないフリをしていただけで何度も考えていた事だ。

俺がいる事で、彼女が嫌な思いをする。

それは純粋に俺の胃を重くさせた。俺が存在する事がもたらす罪悪。ああ、俺は少し、舞い上がっていたのだ。なまえさんが俺を拒絶しないでいてくれて。そのせいで目が曇ってしまって彼女の本心を見ていなかった。

彼女は俺に、迷惑していたのだ。

岩を飲み込んだような腹の重くなるような事実だった。なんだ、やはりそうだったのか。俺の生は誰にも祝福されていなかったのか。俺はあの人に救いを見出したけれど、あの人は俺を疎ましく思っていたのか。

そう思ったらもう、足は鉛のように重くなった。しかし不思議な事にあれだけ重かった足はなまえさんの家から遠ざかるにつれて軽くなり、兵舎に着く頃にはすっかりと元通りになってしまっていた。

兵舎では変わらず一般兵の訓練の声や教官の怒鳴り声が聞こえる。俺はここを酷く息苦しい場所のように思っていたのに、今この瞬間、ここはどこよりも俺を受け入れてくれる場所のような気がした。

そして訓練のなんたる清々しさか。俺は暫く、何もかもを忘れて訓練に打ち込んだ。俺の真面目さときたら、上官が顔を見合わせる程だ。まあ、これは多分普段俺が上手に手抜きをしているのがバレているからだろうが。

兎に角それから少し、俺はあの女中に言われた通りなまえさんの家に寄り付かないようにしてみた。街でもうっかり出会わないように彼女と生きる時間を変えた。そうしてみればいとも簡単になまえさんの影は俺の生活から消えてしまった。その世界は酷く物足りなくて、味気なかったけれど俺はそれで良かった。

前にも言ったが、拒絶されるくらいなら忘れられる方が数百倍、マシだった。

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