変わらないもの

それからも俺はなまえさんの家に通ったし、なまえさんも俺を迎えた。あの雨の日の事はあったような無かったような事になっていたけれど、俺はそれで良かったし変に蒸し返してまたおかしな事になるよりかは忘れ去られていた方が楽だった。俺は変わらずなまえさんの家を一週間に一度か二度訪れては飯を食い、時折彼女の家に泊まって客間の天井に絵を描いた。そうやって少しずつ俺たちは以前の俺たちを取り戻していった。そうして季節は過ぎて行って、俺たちは冬を迎えた。

北海道の冬は、寒い。茨城とは比べ物にならないような気がする。尤も俺は茨城で過ごした冬なんてもうほとんど忘れてしまったから、ただただ北海道の冬が寒いだけなのかもしれない。冬は嫌いだった。寒くて冷たくて静かで寂しい。耳を刺すような静けさは時として俺を責め立てた。けれどもこの冬は違った。柔らかな匂いが俺を救う。

「百之助ちゃん!見て!」

嬉しそうな弾む声でなまえさんが俺の傍に来た。手に木の箱を抱えていて何事かと覗き込めばそこにあったのは。

「あんこう……、ですか?」

「そうよ、お隣さんにね、あんこうを頂いたの!今日はあんこう鍋ね。大丈夫?」

嬉しそうに頬を染めて微笑むなまえさんは知っているのだろうか?あの頃俺は言って無かったけれど。じわり、と感傷と温い感情が溢れて上手く言葉が紡げなかった。

「俺は……何でも食べますよ。冬はやはり鍋ですね」

そう言えばなまえさんはもっと嬉しそうに笑った。それから優しい顔をして、俺の頬を撫でた。なまえさんには何も言ってなかったはずなのに、彼女の顔は何もかも知っているような気がして俺はその柔らかな手に俺の硬い手を重ねた。静寂が空間を支配していたけれど何か言わなければという強迫観念は生まれなかった。俺たちはただ見つめ合って、そして合図も無いのに互いにその視線を外し合った。

「手伝いますよ」

ふと思いついた事を口にしてみる。我ながら血迷ったような言葉だと思ったけれどなぜかそれは酷く名案のように思えて俺は立ち上がる。なまえさんは驚いたように首を振って。俺を押し留めようとした。

「駄目よ、百之助ちゃんはお客様じゃない。座っていて頂戴。お客様を独りにするのは私も忍びないけれど……」

「いいえ、もう決めました。俺にも手伝わせてください」

なまえさんの制止を振り切って客間の障子を開ける。厨の位置は大体知っていたから勝手に歩き出せばなまえさんは慌てたように俺の後をついてくる。

「もう、待って頂戴な」

「なんなら俺が全部作ってしまいましょうか?あなたは座っていては?」

「あら、『男子厨房に入るべからず』よ。知らないの?」

「おや、中々に古臭い言葉を持ち出してきますね」

言葉の応酬が実に心地良い。それはあの頃には、手探りの関係では出来なかった事だった。愛おしさが募りなまえさんの顔を見たら彼女も俺の顔を見ている。俺たちは顔を見合わせて互いに呆れたようにため息を吐いてそして声を出して笑った。なまえさんは仕方なさそうに俺を厨房に入れ、俺は彼女の指示通りに動く。あんこうを捌くなまえさんの手付きを眺めながら、俺もいつかこんな風に伴侶の姿を眺める時が来るのだろうかと考えた。俺の想像の中で隣に並び立つ女の顔は黒く塗りつぶされていて分からず仕舞いだったけれど。

あんこう鍋は俺の記憶の中の母の味よりももう少し薄味で、野菜が多かった。野菜は少なめで良いと言ったのに。

「沢山お野菜を食べてね。軍人さんは身体が資本と言うでしょう」

あんこうばかり狙おうとする俺に苦笑するなまえさんも幸せそうにあんこうを頬張る。「美味しいね」と微笑んだなまえさんは愛らしかった。それだけは昔から、ずっと変わらない事だった。

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