夏の星々

それからも俺は理由を付けてなまえさんの許に通った。彼女は俺を微笑んで受け入れ、甲斐甲斐しく俺の世話を焼こうとした。(「ご飯はちゃんと食べているの?睡眠は?規則正しい生活をしなくては駄目よ」)

それは鬱陶しいくらいに気恥ずかしくて俺はどうしても真面目に返事が出来ずにいつも生返事しか出来なかった。本当は確りとあなたの目を見て返事をして、お返しにあなたの心配もしたかったのだけれども。

いい加減な返事をする俺になまえさんは少女のように頬を膨らませて俺を叱った。正座をさせて膝を突き合わせて。俺がまるで母親みたいですね、と笑ったら、彼女はかあ、と頬を赤くして反省が足りないわ!とそっぽを向いた。でもその耳は赤くて俺は本当に可笑しくなってつい、声を出して笑ってしまった。

……なまえさんが口を利いてくれなくなったのは言うまでもない。

「……いい加減に、機嫌を直してください。じゃないとあなたが俺と口を利いてくれるまで、俺は帰りませんよ」

夕方まで俺は彼女の家に邪魔したが、彼女が口を利いてくれなくなってからは俺が一方的に話をして彼女がそれに頷くか首を振るかだけであった。「口を利かなければ」反応するのかと思ったらこの人は本当に律儀な人だと思って途端に愛おしくなる。だがそろそろ限界だ。これ程までに近くにいて、あなたの声が聞けないなんて。

「一緒にいるのに俺ばかり話しているのは正直精神衛生上良くありません」

「…………」

「参ったな、俺としてはあなたと一緒にいられるなら何でも良いと思ったけれど、あなたが何も言ってくれないのはやはりつまらない」

「…………」

無言のなまえさんを見つめながらはあ、とため息を吐いてみる。なまえさんは怯んだような顔をしながらも一生懸命視線を逸らす。……可愛らしい。でもそのいじらしさが俺に悪戯心を生じさせてしまうのだから、あなたは本当に何も分かっていないですね。

そっと、なまえさんの傍ににじり寄って彼女の顔を覗き込む。なまえさんの瞳が少し動いて俺を見て、また逸らされた。でも、逃しはしない。耳許で、囁く。

「ねえ、いい加減に俺にその可愛らしい声を聞かせてくださいよ」

「……っ!」

「俺はあなたの喉が俺の名を紡ぐ音が大好きなのです。あなたの声が俺の名を呼ぶ度に俺はこの世に生を受けて良かったと見も知らない、名前も知らない神に感謝しています」

少し大げさなような気もしたが嘘ではないから良いとしよう。なまえさんの顔を俺の方に向けて、諭すように見つめた。吐息も混じり合いそうなその距離になまえさんは少し驚いたような顔をして、それからまた頬を膨らませた。

「……私を揶揄って楽しいかしら」

「……まさか!あなたの前にいる俺はいつも全力で正直にあろうと努力していますよ。俺の言葉は全て本当ですから安心してください」

微笑んで見せればなまえさんは仕方なさそうにため息をついて笑った。それから彼女は俺を見つめた。俺の瞳を見て、そして俺の名を呼んでくれた。

その音が彼女にその気がなかったとしても俺の生を祝福してくれていたら良いのにと、俺は僅かばかり願った。俺の存在を、肯定してくれたならばと。

***

美しい夏の夜空だった。いつの間にか、なまえさんと再会してから二ヶ月程が経っていた。鬱陶しい梅雨は終わり、代わりに鬱陶しい暑さがやってきた。尤も北海道という点で本土よりは少しはマシなのだろうが。

ぼんやりと回想に耽る俺の視線の先で星が散って、落ちるような光が弾けてまた落ちる。それからその後を追うように耳を打つような音が鳴る。なまえさんの家の縁側で俺は彼女に酌をしてもらいながら花火を観ていた。

一週間程前に近くで花火大会があるとなまえさんに教えられた事が発端であった。一緒に観られたら良いわね、なんてそんな言葉を与えられて俺が期待しないとでも思ったのか。案の定俺は帰って早々一週間後の外出許可願を提出して、そして今夜なまえさんの隣に座っている。

大輪の花火が夜空を彩る度に彼女は歓声を上げ、その表情はころころと変わった。それを横目で見ながら俺はじわじわと迫り上がってくる温い感情を誤魔化すように杯を呷る。

「綺麗ねえ」

「ええ、本当に」

本当は俺は得段花火に興味は無かったし、花火よりもむしろなまえさんを見ていたから花火の感想なんて思いつかなかったけれど、なまえさんは俺の返答に満足したのか少女のように笑った。

「あの頃」のように綺羅綺羅とした瞳で空を見上げて時折俺への酌を忘れる彼女に気付かれないように杯を手酌で満たしながら彼女の無邪気さを微笑ましく思う。あの頃と変わっていない彼女の部分は俺を純粋に安堵させた。

感傷のせいなのか、或いは仄かに回ってきた酔いがそうさせるのか、彼女の温もりが恋しくなってしまって俺は杯を置いて、図々しくも彼女の手を取った。

「百之助ちゃん……?」

不思議そうに目を瞬かせて俺を見たなまえさんの黒い瞳の端に花火の星々が映って消えたのが見える。夜のような真っ黒の瞳に星のような綺羅綺羅とした光が舞い散って、それはどんな花火よりも美しく俺を惹きつけるのだと知った。

コメント