訳も分からないまま連れて来られたのは小樽であった。何も説明してくれない月島さんは私をある建物の一室に連れ込んで、後ろ手に障子を閉めた。外は雨が降っていたけれど、私は月島さんの外套の内側にずっと隠されていたから殆ど濡れる事は無かった。びしょ濡れの月島さんのこめかみを伝って雫が一筋流れ落ちる。
「少しの間、ここで待っていてくれ」
「なんで……っ!ここはどこです……!?」
嫌な予感と、予想もつかない恐怖と、置いて来てしまった兄さんへの不安が一気に襲って来て、兎に角、独りでいたくなかった。今更月島さんを以前のように気安くは思えないけれどでも、それでも独りよりは遥かにマシで、私は月島さんの服の裾を固く握った。
「独りにしないでください……!兄さんは?夕張に帰して……!」
震えているのは寒いせいじゃない。室内は十分に暖かかった。それなのに私の手は小刻みに震えてそれは月島さんにも伝わったようだった。彼は彼の外套の私が握っている部分を上からそっと掴んだ。長い間雨に濡れていた月島さんの手は私のものよりずっと冷たくて、その冷たさに私は唇を噛む。
「今は君を夕張には帰せない。江渡貝は行方不明で、君たちを襲った人間についても詳細は不明なのだから。まずは『これ』を渡して今後の事を相談する。……君の事も含めて」
それは兄の作品だった。それが完成した事を兄と手を取り合って喜んだのが随分前の事のように思えて、遂に耐え切れなくなって私の瞳から涙が零れ落ちる。
「いや……、にいさんに、あいたい……。やくそくしたの……、世界をみてまわるって、」
俯いて涙は誤魔化せても震える声はそうはいかなくて、自分が泣いていると気付けば涙はもっと溢れてきた。泣いたって仕方なくて、こんな事になったのは誰のせいなのか分からなくて、誰を責めれば良いのかも分からない。
ごしごしと目を拭う私を、月島さんは黙って見ていた。私に温もりを与える事も優しさを与える事も彼はしなかった。それが正しい事だと、私も何処かでは分かっていた。こんなところでお情けを与えられても、根本的な解決にはならないのだから。ただ、それでもきっと彼は優し過ぎて、自罰的だったのだろう。
「ここにいろ、なるべくすぐに戻る。着替えは……、これを使え」
泣いていて、返事もしない私の傍に幾つかのシャツなどを置いていった月島さんは障子を勢い良く引いて、そして立ち止まった。見ていないけれどそんな気配がして、それでも私は下を向いていた。そうしたら俯いて泣きじゃくる私の肩に重くて湿ったものが掛けられる。顔を上げた時には月島さんはもういなくなってしまった後で、残ったのは彼の雨に濡れて雫すら滴り落ちそうな外套だけだった。肩に掛けられたそれは酷く重くて冷たくて、多分私がいつまでもこれを羽織っていたら風邪を引いてしまいそうな、そんな予感がした。
それでも、何故だろう。
私は月島さんの外套を打ち捨てることが出来なかった。それどころかそれを身に引き寄せて、少しでも探した。私以外の、私の知る人の証を。月島さんの、否、それ以上に兄さんの生の証を。だって、本当は私は気付いているような気がするのだ。兄が持って出て行った作品を、月島さんが携えて帰ってきた事。約束を破った事が無い兄さんの「代わりに」月島さんが来た事。他にも、いくつか。
兄さんの生の証が欲しかった。生きているという確証が欲しかった。兄さんとずっと生きていきたいと、その覚悟を決めたばかりだったのに。
「にいさん……、」
蹲っているのに疲れてしまって、月島さんの外套を羽織ったまま寝転んで丸くなる。上等な畳が水を吸ってしまう気がしたけれど構うまい。強いられてここに来た私に文句など付けさせない。
濡れた外套が私の体温を奪って、今度は本当に寒くて身体が震える。でも何もかも、どうでも良かった。夕張を離れて、兄さんと離れて、生きていける気などしなかった。目だけ動かして外を見ても真っ暗だった。深い夜は明けるには程遠い。希望だって。
震えながら閉じた目の奥で、優しく笑う兄さんが遠くてまた、涙が滲んだ。
ずっしりと重い身体が冷たくて、身体はずっと寒くて震えていた。冷えた指先を誰かの手が握った気がして、それが兄さんの物のような気がして握り返す。「なまえ」と優しく名前を呼ばれて、ああ、兄さんが帰って来たと思ったのに。
薄らと目を開けた時、視界はぼやけて揺れていた。寒くて堪らないのに身体の中には悪い熱が溜まっているような気がして震えていた。私は未だ月島さんの外套を身に巻き付けていたようだ。息を吐く音がして顔だけ上げれば、呆れたように私の顔を覗き込む月島さんがそこに膝を突いていて、私は私の名を呼んだのが兄さんではなかったのだと知った。感情にまた一つ癒えない傷が付いた気がした。
「どうして、」
月島さんの言葉には様々な意味が含まれているような気がした。どうしてまだ濡れたままでいるのかとか、どうしていつまでも外套を羽織ったままなのかとか、どうして、逃げ出さなかったのかとか。すっかり乱れてしまった私の髪をゆっくりと顔から払いながら、彼は私の瞳をじっと見た。私の瞳を。彼の親指がゆっくりと動いて私の眦に浮かぶ雫を拭うまで、私は自分が泣いている事を忘れていた。
兄さんに会いたかった。
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