巣立ちの日

なまえと初めて話した(若しくは一方的に苦言を呈された)日から、彼女は三回に一回程の割合で俺たちの存在を認識し始めた。話題は決まって彼女の兄の江渡貝の事で、大抵は俺や前山が江渡貝を作業に戻す手伝いを請う為のものだった。

それでも十五回に一回(或いはそれ以下の確率で)なまえの方から声を掛けてくる時があった。大抵は高い所の物を取れだとか、大きな荷物を運べだとか、まあ体の良い雑用の頼みではあるが。どうせ江渡貝の作業の邪魔をする訳にはいかないとかそういう理由で渋々俺たちに頼んでいるに違いない。

「月島さん」

その日、彼女の声が聞こえたのは何もやる事が無くてただ、何となくぼんやりと剥製所に置いてある剥製を眺めていた時であった。死んでいる筈のそれらはまるで生きているかの如く、生前の姿を晒していた。それらをしげしげと眺めていたのだが素直に感嘆した。良く出来ているものだと。これで俺の隣に人間剥製さえ無ければもっと素直な気持ちで江渡貝を称賛出来ただろう。目線を横に動かして、無機質な表情をしている人間剥製にため息を吐いた。江渡貝の作業のために剥製は皮を剥がされて座っている。奥の剥製と目が合ってしまって、顔を顰めた。

そんな時、なまえの高くもなく低くもない聞き取りやすい声が聞こえた。振り返れば少し憂鬱な顔をした(見様によってはいつも以上に不景気な顔をしている)なまえが立っていた。

「どうした?」

「……少し、手伝ってください」

感情に乏しい平坦な声でなまえは俺の名を呼んだ。彼女に呼ばれると出生と同時に与えられた俺の名前は途端に記号か何かのようになってしまう。

「手伝う?」

「はい。……私一人では、荷が重いので」

一体何を手伝わせるつもりなのかと、目を細めるが考えても始まらないと立ち上がる。なまえは色の無い瞳で俺を見て、それから口の中で小さく「ありがとうございます」と呟いた。

「何を手伝えば良い?」

「……部屋の掃除」

成程、と合点した。実はこの兄妹、物に執着が無い癖に驚く程物に囲まれて暮らしているのだ。その為俺と前山の寝室を作るためにここ数日、なまえは空き室(彼らの中では物置と化していた)の掃除をしてくれていた。ちなみにその間俺たちは床に毛布を敷いて寝ていた訳だが、これはまあ、仕方ない。

「悪いな、俺たちは床でも構わないんだが」

「……流石に、兵隊さんをいつまでも床に、転がしておくわけには」

俺の言葉になまえは訥々と言葉を返す。言葉を覚えたばかりの人間のように、彼女は時折沈黙を挟みながら俺と会話する。その顔には矢張り表情は無く、ふと、俺は気になっていた事を彼女に問う。

「俺との会話は苦痛か?」

「え……?」

驚いたような顔で俺を見たなまえの表情は今日一番人間らしかった。歩みを止めて立ち尽くして俺を見るなまえに俺は顔を向ける。

「いや、以前小言を喰らった時は良く回る口だと思ったからな。それとも、兄の事を話す時だけ雄弁になるのか?」

皮肉にも取れる聞き方だと思ったが取り繕っても仕方ないだろう。どの道数週間の付き合いなのだから。なまえは言われた事を反芻しているのか目を瞬かせて俺を見ていた。そして、何故かじわじわと白い頬を耳まで赤らめた。

「……?どうした?」

「……っ、違います」

「何が違うんだ?」

赤い頬を隠すように俯くなまえが見せる人間味に今度は俺が動揺する番であった。一体何が彼女をここまで動揺させた?掛ける言葉も知らず阿呆のように突っ立っている俺が小さな声を捉えたのは彼女が俺を上目に見つめたのとほぼ同時だった。

「……知らない男の人と、話す事なんて殆ど無かったから」

「……は」

「どうやったら上手く話せるか分からない、です。考えながら話してるから。兄の事は、考えなくても言葉が出るけど」

恥ずかしそうに目線を床に落としてそれからなまえは俺を見た。鳶色の瞳は強い光を湛えていた。長い睫毛が彼女の瞳を縁取り、その意思の強さを強調させているようであった。

「人との会話は嫌いじゃないです。あなたたちには早く帰って貰いたいけど、あなたたちが来てから兄は以前よりずっと生き生きしています。その点は感謝しています」

ぺこり、小さな頭が下げられる。成程、その感謝が俺たちに対する態度を少しばかり軟化させた理由という訳だ。頭を上げたなまえは未だ恥ずかしそうに唇を引き結んでいたけれど、本題を思い出したのか少しやり難そうに、何でも無いような澄ました顔をして俺を追い抜いて廊下の先の部屋を指差した。

「あそこの部屋が、お客さん用の寝室です。家には何年もお客さんが来た事なんて無かったから、片付けないと。お客さんに手伝わせる事じゃないですけど、」

「構わない。勝手に転がり込んだ身だからな」

頷いて、扉に近付きなまえの肩越しに部屋の中を見た。愕然とした。

部屋中に所狭しと置いてあったのは人形であった。服を着せられた人形もあれば、何も纏っていない関節を剥き出しにした人形もあった。大小の差もあった。片腕が無い、片足が無い、半端な人形もある。ただ一つの共通点は、皆同じ顔をしていた事だった。

「父だったものです」

振り返ったなまえは美しく笑っていて、俺は俺の方がおかしいのかと一瞬眩暈がした。なまえは俺が感じた不快感には気が付かなかったのか、当たり前のように部屋に入って、そしてすぐ傍に座っていた人形の首を掴んで引き倒した。元々頑丈な造りではなかったのか、彼女が父と呼ぶ人形は床に叩きつけられて幾つかの関節を外してばらばらと床に散らばった。

「お、おい!」

「母が死んで思い出したんです。父はもう死んでいた事。こんなの、ただの、木偶」

手伝ってください。これ棄てないと。

それでも、何でもないように言い放つなまえに俺は確かに嫌悪を感じた筈なのに、その気持ちはみるみる萎んでいった。それはきっと、彼女の瞳から零れる涙のせいだ。なまえは、泣いていた。

「お、おい……、何を泣いて、」

「父を直接に殺したのは母です。でも、それは私の罪です。同じように兄が歪んでしまったのも。私はどこかできっと正す事が出来た筈なのに。これじゃいけないって分かっていた筈なのに、」

目を擦ってしゃくり上げるなまえは尚も、部屋中の人形を殺すように床に叩き付ける。それはきっと兄の母殺しと同じなのだろう。彼女は父を殺して漸く、育った巣が歪んでいたと気付くのだ。

「月島さん、手伝ってください」

全ての人形が無残に打ち据えられた時、なまえは赤い目許に鼻声で俺を見た。何も言えず頷く俺になまえは儚く笑った。その顔に場違いに生気を感じたのは俺の見間違いだろうか?

「これ、ばらばらにしないと近所の人に不審がられてしまうわ。出来る限り小さくして、薪に出来るものは薪にするのを手伝って貰えませんか」

「……構わない。君はこれをばらばらにしてくれ。薪割りは俺がしよう」

俺の言葉を聞いて安心したような、救われたような彼女の表情は今でも時折俺の頭の中を過ぎる。それは忘れたくても忘れられない表情だった。そして多分これからも忘れられない。

小一時間、部屋の片づけと薪割りに追われた俺たちは、漸く部屋が使える状態になる頃には汗だくの埃まみれであった。

「ごめんなさい、疲れたでしょう」

座り込んで汗を拭う俺に冷たい水を手渡してくれるなまえに有難く一気に呷る。なまえはほつれた髪を風に遊ばせながらすっきりとした顔で目を閉じていた。ぼんやりと俺がそれを見ていたら、彼女は目を開いて俺を見たから目が合った。

「汗かいたし、お風呂入りに行きましょうか」

「…………構わないが、俺は長風呂だぞ」

「あら、お揃いですね」

微笑むなまえは生まれ変わったのだろうか。それは分からない。彼女の十数年間が、たった小一時間の儀式でチャラになったとも思えない。ただ、それでも、微笑むその横顔はただの娘のように見えて、それは素直に喜ばしい事だと、そう思えるのだった。

コメント