「なまえ、さん?」
柔らかな感触に心臓が破裂しそうな程に脈打っていた。なまえさんは俺の背中にぴったりと身を寄せて恐々と息をしていてその真意は一つも分からない。何一つ知らない少年の如く俺は阿呆のように立ち尽くしてただ吐き出すべき正解を必死に探した。何を言えば俺たちは元に戻れるのだろうとただ、ひたすらに考えていた。
「か、揶揄うのは止めてください。俺は……あなたの愛する人では……こんな、事は、」
やっと思い付いた言葉はまともに喉から出てこなくて自分の不甲斐なさに苛立ちが止まらない。それでもこの状況を打破しようと俺の頭は懸命にその機能を果たそうとする。
きっとなまえさんは人肌が恋しくなってしまっただけなのだ。だから手近な俺でその欠乏を解消しようとしていただけなのだ。それだけで、この行為に何の意味も。
何の意味も無いなんて思えるものか。
何とかして自身を納得させようとするのに俺は何一つ納得出来なくて、耐えられなくて彼女の腕に手を重ねる。外そうと思えばこんな拘束など簡単に外せた。手弱女と軍人。力の差は歴然としているのだから。それでも俺は彼女からこの腕を外して欲しかった。彼女の意思で俺を拒絶して欲しかった。
「俺の気持ちを知って、何も起こらないと思っているのなら、それは思い上がりです。今ならまだ無かった事に出来ます。……お願いです、この腕を、外してください」
それは懇願だった。俺の美しい想い出を美しいままにしておくための。それなのに、なまえさんは更に俺の身体を強く抱くのだ。
「……無かった事に、しないで」
泣きそうな声でそう囁いて。その声を聞いた時俺は本当に彼女が憐れで仕方なかった。そしてあの男がこれ以上にないくらい憎らしかった。
あの男が、あいつさえ死ななければなまえさんは俺なんかに縋らなくても良かったのに。あいつさえ生きていればなまえさんは今も笑っていられたのに。なまえさんが笑ってくれさえいたら俺はもう、それだけで良かったのに。過ぎ去った者をこれ程までに惜しく思ったのは初めてだった。
静かな空間になまえさんの啜り哭く声だけが響く。泣くな。泣くなよ、泣かないでくれ。あなたが悪い訳じゃないんだ。運が悪かっただけであなたが悪い訳じゃない。あなたが悲しいのはあの男が死んだせいで、あなたが今苦しんでいるのは俺のせいだ。あなたはただ助けを求めただけでその相手が偶々俺みたいな男だっただけなんだ。あなたが自分を責める必要なんか無い。
「……泣かないでください。……無かった事になんか、しないから」
零した声はなまえさんに届いただろうか。腕に抱いた彼女は酷く冷たくて軽くて、その身体で何を背負っていたのだろうと考えるとその憂鬱で死ねる気がした。
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