それからいくつかの季節が過ぎて、俺はもう、「あのひと」がいなくても生きて行けるようになっていた。花見の約束も、反故にされた事なんて無かったように息が出来るようになった。「あのひと」がいなくなってしまったならば、きっと生きていけなくなると思っていた俺の日常は恙無く続いていて俺は拍子抜けするくらいに、毎日を生きていた。
桜ももうすっかりと散ってしまって、俺はその頃には鳥撃ちも川釣りも止めてしまっていた。なんとなく、出来なくなっていた。鳥の死骸一羽一羽に、魚一匹一匹に、「あのひと」の事を思い出してしまいそうで。蓋をした俺の感情が蘇ってきてしまいそうで。俺は怖かった。
いつものようにぼんやりと縁側に座って庭を眺めるのが俺の専らの日課であった。生温い風が俺の頬を撫ぜ、じっとりとした暑さが俺を包む。もう、六月になっていた。庭に揺れる紫陽花が、煩わしかった。
俺は本当は、知っていた。青く揺れる紫陽花が持っている花言葉を。俺は本当に、知っていた。この世界は独りで生きていく方があまりにも傷付かないでいられるのだと。
揺れる青花があまりに煩わしくて俺は裸足で沓脱から庭に下りて、紫陽花に駆け寄った。胸元から護身用の小刀を取り出す。バアチャンに、怒られるかな、ふとそんな思いが過ぎってそれから首を振った。構うまい。どうせ、こんな花、腹の足しにもならない、ただの花なのだから。
紫陽花を根元から刈り取っていく俺を見たバアチャンは何を思ったのだろう。俺は何も思わなかった。刈り取った紫陽花は積み上げて火を点けて焼いてしまった。初夏の夜空にめらめらと揺れる炎に何を勘違いしたのか蛍が寄ってきて、そして焔舌に舐め取られるように焼かれて死んでいった。俺はその炎が小さくなって灰になるまでじっと眺めていた。
そして俺は本当に俺の中の「あのひと」に別れを告げた。「あのひと」が大好きだった花と一緒に。
***
小樽は茨城よりも随分と涼しい。俺はもう、誰がいなくても生きていけるくらい「大人」になってしまった。時々あの「宿題」を思い出してしまいそうになったけれど、それでもそれを達成することは、もう、永遠にできはしないだろう。俺の時間はどうやら、あの、茨城の片田舎で「あのひと」と分かち合った一年にも満たない日々から動いていないようであった。
(……過ぎ去りしものは、皆美しく、ねえ)
いつか一夜を過ごした女が言っていた言葉を思い返して苦笑めいたものが零れる。確かに、それは正しい。俺の中で「あのひと」と過ごした日々は何よりも綺羅綺羅と輝いて、それ以上の輝きの日々を俺は持てないでいた。それはきっと「あのひと」と過ごした日々があまりにも美しかった以上に、俺が「あのひと」を得られなかったという屈辱が強かったからだろう。俺は昔から本当に、欲しいものは手に入れないと気が済まない性質であった。きっと、「あのひと」ぐらいだったんじゃないか?俺が本当に欲しいと思って手に入れられなかったのは。それどころか、あろう事か俺を捨てた「あのひと」は今どこにいるのだろう。時々それを考えて自嘲する。そんな事、俺には関係ない。
何をするでもなく、小樽の街を歩く。そうすれば時折俺に意味深な視線を投げて寄越す女がいる。時折そういった女たちと夜を共にして孤独とも呼べない虚しさを紛らわす。戦争帰りは女たちから持て囃されたし、俺も別にちやほやされて悪い気はしなかったから戦争から帰ってからは暫くそうやって怠惰に過ごした。日々は変わらないと、思っていた。俺はこれからもこんな日常を繰り返して、そしていつかまた戦争が始まって、どこかの戦場で誰にも顧みられずに死ぬのだと、そう思っていた。
(…………、え?)
一瞬だけ、俺は俺自身の視力を疑った。どれだけ遠く離れていても俺は獲物の急所を射抜けると自負していた。それくらいの視力はあると思っていた。でも、初めてそれを間違いかと疑った。
俺の目の先でその女は顔を上げた。その横顔には見覚えがあった。
それは、その横顔は確かに、なまえねえさんであった。
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