朝食は美味かった。久し振りに何かをこんなに美味いと思った。それは料理人の腕という事もあっただろうが、何より「彼女と共に卓に着いたから」というところが大きいのではないかと少し考えた。初めてこの人と共に飯を食った時から、俺の食事はいつも美味かった。俺に物の味を思い出させてくれたのはなまえさんだった。
「美味いです」と正直に感想を伝えれば、なまえさんは嬉しそうに微笑んだ。その笑みに少し安堵して俺も微笑み返す。しかし、きちんと身に着けられた着物から覗く白い首筋に、昨日俺が付けた赤い跡が見えて途端に罪悪感に胃が重くなる。食った物が胃の中で逆流しそうだった。誰かと一夜を過ごす事がこんなにも苦しい事であったなんて俺は知らなかった。
「ねえ、これで、会うのお終いにしよう」
唐突に、なまえさんは言葉を吐いた。俺の目を確りと見て。奇妙な静寂が空間を支配していた。先ほどだって俺は言葉をほとんど発しておらず、言葉よりも沈黙の方が多かったのに、今の静寂はそれよりも不気味な「無音という音」で俺を責め立てた。俺は何も言えず馬鹿みたいに汁椀を持ったまま、ただ、彼女の顔を見ていた。震える手に汁椀の中の味噌汁が波打って波紋が浮かぶ。なまえさんの明確な拒絶は俺を酷く動揺させた。
「終い、ですか?」
俺の声は震えていただろうか。自分で思う以上に弱々しい声しか出なくて、俺は俺の不甲斐なさに唇を噛み締めた。ずっと、そうだった。俺は何も出来ずに見ているだけで、そして全てが終わってからそれを後悔するだけだった。母さんの事も、俺の想いの事も、なまえさんの事も全て。本当は知っていた。俺が出来る事はきっともっと沢山あった。それでも失敗するのが怖くて、取り返しのつかない事になるのが怖くて俺は何も出来なくて全部壊してしまった。全部全部、俺は本当はずっと欲しくて堪らなかったのに、強がって全てをこの手から零してしまった。母の愛もなまえさんの想いも、あの人からの祝福も、俺は本当はずっと欲しくて堪らなかった。
潮時だと思った。俺は今こそ決別しなければならないのだと。俺のこの、下らない何の足しにもならない後悔から。
「そう。このままじゃ私たち共倒れしてしまうわ。私は良いの。でもあなたを巻き込みたくない。今まで散々利用しておいて勝手と思うでしょうね。でも、私、あなただけは巻き込みたくないの」
あの頃のような言い聞かせるような表情を懐かしく思った。俺はその顔に弱かったのだ。「なまえねえさん」の言う事なら何でも従った。それが当然であると思っていた。「なまえねえさん」はいつも正しくて、俺を導いてくれると思っていた。でも、それはもう終わりだ。知っていましたか?少年だった俺は大人になって、あなたを救いたいと醜く足掻いているのです。どれだけ間違いを犯そうとも、それだけは俺の心に刻み付けられていて、何度失敗しようとも俺は足掻くのです。
後悔するのはもう沢山なんだ。あなたが俺を救ってくれたように、俺はあなたを救いたい。あなたの笑顔の先に誰がいたって構わない。ただ、あなたを。
「愛しています。あなたの事を、俺は愛している。上等です。最初から、巻き添えなんて覚悟している。利用されたって構わない。それで良いんです。あなたと同じものを、背負いたいんだ」
気付けば声が出ていた。それは俺の中の美しい想い出の残滓を完全に捨てるものだった。でも、それで良い。俺は何を捨てたって、欲しいものを見つけたのだから。それは脆くて壊れやすくて力加減も知らない俺が何度も傷付けてしまったものだったけれど、あたたかくて優しくてこの上に無いくらい大切なものだった。
まっすぐに彼女を見た。俺の拙い愛の言葉を彼女が零さないように。
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