揺り籠の中で懺悔

雨はいつの間にか止んでいた。布団に包まってひっそりと眠るなまえさんを起こさないように障子を僅かに開け外を見れば雨上がりに光る街並みを反射して空には虹が架かっていた。俺たちの心中とは裏腹の空に乾いた笑いしか出なくて俺は息を吐いて障子を確りと閉め直す。そうすれば日当たりの悪い部屋はまた薄暗くなり、障子を閉めた俺はなまえさんの寝ている布団の傍に座って彼女の顔を見た。

赤く腫れた目蓋は痛々しく、くっきりとした隈が彼女の顔を暗く見せていた。静かな呼吸だけが彼女に唯一残された生の証のような気がして俺はその音にじっと耳を傾ける。すぐに虚しくなって静かに布団に沿うように寝転んでみる。なまえさんの寝顔が視界に入ってきて愛おしさと苦しさが募り、彼女の呼吸の度に僅かに上下する掛け布団に俺は手を乗せて布団越しに彼女の身体を撫でた。柔らかな塊は僅かに身動ぎしてそしてまた上下した。夢でも見ているのだろうか、一瞬苦し気だったなまえさんの顔が緩んで微かな笑みになり、その眦から一粒涙が零れた。誰の夢を、見ていたのだろう。それを知る術は俺には無かった。

それから彼女が目を覚ますまで俺はただひたすらに彼女の顔を見つめていた。彼女の睫毛が震えてその目蓋がゆっくりと開くまでずっと。目を覚ました彼女は何も言わなかったけれどただ、俺を見て「あれ」が夢でなかったという事に呆然としているようであった。

「……帰りましょう。送ります」

「……うん、」

お互いに顔も見る事が出来ず俯いたまま、俺たちは待合を出て彼女の家へと黙って歩いた。結局なまえさんの服は乾き切らなくて、仕方なくやはり生乾きの俺の服を羽織らせて俺は彼女の手を引いた。時折立ち止まってしまいそうになるなまえさんを振り返る。彼女は俺の手を振り払いはしなかったけれど、視線は一度も絡まなかった。

「さあ、着きましたよ。確りと着替えて風呂にも入ってください。絶対に、濡れたままでいない事」

何食わぬ顔で辿り着いた彼女の家の前で握っていた手を離そうとした。このまま何食わぬ顔で別れて何食わぬ顔でまたいつか彼女の家を訪れればそれですべてが終わると思っていた。それなのになまえさんは手を離してくれなかった。弱く俺の手を握り込んで、親指で俺の手の甲をそっとなぞった。

「……かえら、ないで」

縋るような小さな言葉を撥ね退ける事など到底出来なくて、俺は僅かに頷いて彼女の手を握った。その手は冷たくてずっと握っていたのに俺の熱は移ってはいなかった。

***

微睡みから目が覚めた。腕の中のなまえさんが身動ぎしたせいのようだ。柔らかな髪を撫でて彼女を抱き直す。行為の終わりに僅かにやって来る虚脱の時間が俺を束の間の眠りに誘い込んだようであった。彼女の家に泊まった俺はその求めのままにまた彼女を抱いた。なまえさんは全てを忘れたいかのように快楽に狂い、何度も何度も達した。意識を失う前に彼女が最後に口にした名前が誰のものだったのか、俺は怖くて聞こえない振りをした。

小さな寝息と柔らかく温かな香りに凪いでいく心とそれに比例するように肥大する罪悪感が俺を襲う。少年の日の美しい想い出を跡形も無く壊して手に入れたものはただ一つ、彼女の傷付いた顔だけだ。それが果たして俺の望みであったのか、その答えは正しいようで違う気がした。腕の中のなまえさんの顔を見る。涙の跡の残るその顔は苦しげで、綺羅綺羅と輝いていた瞳を覆い隠す目蓋はもっと腫れていた。ああ、俺のせいで、俺がこの人を苦しめた。そう考えたら心臓が磨り潰されるように痛んだ。俺の道のりはこんなのばかりだった。傷付けたくて、傷付けた訳じゃないのに皆傷付いていく。

赦しを請う相手も分からなくてなまえさんの顔を見ていた。そしてそのまま、眠ってしまったようだった。夢を見たような気がしたけれど、誰が出てきてどんな夢だったのか、俺は思い出せなくてただ、夢の中で俺は陽だまりを抱いているような、そんな気がした。それだけ覚えていた。

次に目を開けた時、なまえさんは俺の隣にいなかった。俺は眠りが浅い方で傍らの女が布団を抜ければすぐに気付くと思っていたのに、彼女が起き上がった事に全く気付かなかった。それは俺の安堵が成す業か、彼女の頼りなさが成せる業か、どちらなのだろう。

起き上がって、昨夜散らかしたままだった衣服を集めようと思ってそれが枕元に整然と畳んで置かれているのを見つけた。乾かされていてしかも丁寧にアイロンまで当てられていて、彼女がどんな想いでこれをしたのかと思うと俺は愛しさよりも苦しさの方が優った。

畳まれていた服をそのまま着て、適当に身支度をして部屋を出る。気配がしていたので気付いてはいたが、部屋を出たところでなまえさんと鉢合わせした。俺がいきなり障子を開けたせいか大仰に身体をびくつかせたなまえさんは気まずそうに顔を伏せる。

何か声をかけようとして結局何も思い付かなくて、俺は兎に角声だけは発しようと「おはようございます」と不明瞭に呟いた。彼女の事は見られなかった。

「あ……、」

俺の挨拶に何か返答しようと思って失敗したのだろう、上げられたなまえさんの顔は少しばかり傷付いたような表情をしていた。それから彼女はおずおずと俺を窺い何度か口を開閉させて発する言葉を探していた。

「あ、あの、朝ご飯、食べるかしら?」

「……ええ、はい。ありがとうございます、頂きます」

頷く俺にほっとしたような顔で微笑んだなまえさんの目は未だ赤くて、ああ、彼女はまだ、泣き止んでいないのだな、と思ったら俺は途端に死にたくなった。

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