目が覚めた時、じくじくと痛む頭にああ、またかと溜息を吐いた。どくどくと拍動する米神を無視して立ち上がろうとしたけれど酷い眩暈に襲われてしゃがみ込んでしまう。物音に気付いたのかバアチャンが俺に駆け寄ってくる。額に当てられたバアチャンの手が酷く冷たい事を心配したが、それは俺の額が熱過ぎるせいだった。
丈夫だけが取り柄だった筈の俺は母を喪ってから寝込みがちになっていた。それは俺がしてしまった事が俺に与える心理的な負荷であろうと俺は結論付けていた。昨晩のように俺は今でも夜毎夢に見る。俺の震える指先から零れ落ちる白い粉が鍋の中に溶けて見えなくなっていく様を。美味そうにあんこう鍋を食う母の顔が次第に色を無くして倒れ込む様を。綺麗だった母の痩せた醜い死に顔を。俺は何もかも、覚えていた。覚えていなければいけなかった。
布団に寝かされて目を瞑るけれど、あの光景を夢に見たくなくてもう一度眠るのが怖かった。天井の隅からまた視線が送られてくるような気がして目を瞑って、でも何度も寝返りを打って眠らないように意識を保つ努力をする。熱が上がって来たのか視界がぼやけ、涙が滲む。苦しい。苦しくて、唯、悲しかった。
「…………、ぁ」
口を開いて声を出そうとしたけれど言葉は音にはならなかった。誰を呼んだのか分からなかった。バアチャンなのか、母さんなのか、或いはもっと別の。
「…………、百之助ちゃん?」
密やかな声が、耳朶を打つ。薄らと目を開けると俺を覗き込むなまえねえさんがいた。俺の弱味を聞かれてしまっただろうか、拍動を繰り返す心臓を誤魔化すように俺は身体を起こそうと布団を捲った。
「ああ、良いのよ、寝ていて。ごめんね、起こしちゃったかしら。お祖母さまから聞いて飛んで来ちゃったわ」
心配そうに眉を下げるなまえねえさんは俺の額にそっと手を置く。バアチャン程ではないが冷たい手が心地よくて目を細める。なまえねえさんは俺の肩まで布団を掛けるとバアチャンが持って来てくれた洗面器に張られた水に真新しい手拭いを浸して絞った。
「少し早い夏風邪かしら?最近暑かったり寒かったりしたものね」
微笑むなまえねえさんに目を見開いた。一瞬、ほんの一瞬だったのに、俺は確かにその微笑みに母の於母影を見た。柔らかく笑う、幸せそうな母の顔を。
「ご飯は食べた?」
俺の額に絞った手拭いを乗せながらなまえねえさんは聞いた。飯、そう言えば食っていなかった。正直に首を振るとなまえねえさんは優しく笑った。
「お粥さんでいいかしら?他に食べたい物がある?」
もう一枚、手拭いを絞って今度は俺の汗を拭うなまえねえさんに首を振る。柔らかな顔をして食事を作るためだろうか、立ち上がろうとするなまえねえさんに心臓がぎゅうと痛くなった。何も食べたく無かった。ただ、なまえねえさんに傍にいて欲しかった。無理して起き上がる。また眩暈が酷くなった。
「……食べたくありません。何も要らないから、俺の、そばに……」
布団から手を出してなまえねえさんの着物の裾を握る。言葉は中途半端に途切れ、俺は惨めさにまた目を瞑った。悪夢を抱えて一人で寝ていられる程強くもなければ、「傍にいて」と言い切る弱さも見せられない。何もかも中途半端でこんな弱いところなんて、誰にも、なまえねえさんには特に見せたく無かったのに。
情けなさに視界すら滲む俺だったがその実、なまえねえさんの着物の裾だけは離せなかった。この手の内の感触だけが今の俺を正常な方向に向けてくれる気がした。振り払われたくなくて、拒絶されるのが怖くて、俺は唯只管になまえねえさんの裾を握り締め続けていた。なまえねえさんの顔も見ることが出来ずに。
「…………」
なまえねえさんは何も言わなかった。それが只管に、怖かった。
「…………百之助ちゃんは、」
「…………っ、」
静かななまえねえさんの声が俺を追い詰める。怖い、その先を聞きたくない。このひとにまで見捨てられてしまったら、俺はどうやって生きて行けば良いのだろう。
「百之助ちゃんは大人びているから、誤解していたの。病気の時は皆心細いものね。今は寝てしまいなさい。お粥さんは起きたら食べましょうね?」
ふわり、あたたかな香りがして俺は酷く柔らかな温もりに包まれていた。それがなまえねえさんのものだと気付くのに、可笑しなことに俺は暫くかかってしまった。だって、こんな、いきなり。動揺が身体に出てしまい身を硬くする俺の緊張を解すようになまえねえさんは俺の背を擦り、柔らかく叩く。
とんとんと心臓の鼓動と同じ速度で叩かれる背中に、その温もりに、俺は一度も与えてもらえなかった母さんの於母影を確かに感じた、感じてしまった。何も言われていないのに大丈夫だと、言われているようで俺は迷惑をかけていると分かっているのにこの時間が永遠に続けば良いと思ってしまう。未だ握ったままだった着物の裾をゆっくりと離す。なまえねえさんはどこにもいかなかった、その事に安堵して、少し欲が出てしまって俺は図々しくもなまえねえさんの背に己の手を回してみた。
「大丈夫、百之助ちゃんが寝るまでここにいるわ。横になれる?」
温もりが離れるのは寂しかったけれど我儘を言って困らせるのは不本意だったので頷く。それでもせめては、とどさくさに紛れて白い手を握ればなまえねえさんは優しく笑って握り返してくれた。あれだけ怖かった天井の隅は、もう唯の天井の隅だった。目を瞑れば次第にゆっくりと朧掛かっていく俺の意識の先には俺が本当に望んだものがあった気がした。
その最後にいたのがなまえねえさんだったのか、母さんだったのか、或いはもっと別の誰かだったのか、次に目が覚めた俺は忘れてしまっていたけれど。
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