「ねえ、百之助ちゃん。ちょっと、お手伝いしてくれないかしら」
飯を食って出された茶を飲んでいた時、なまえさんが困ったような申し訳なさそうな顔で俺に声をかけた。その髪にくっ付いていた綿埃を見て彼女が掃除をしていたことを思い出す。手を伸ばして埃を取ればなまえさんは俺の手を見てから恥ずかしそうに頬を赤くした。その愛らしさに微笑んで俺は綿埃を屑入れに捨てた。
「どうしました?何か問題が?」
「え、ええと、納戸に仕舞った本に日光を当てたいの。だけど、私一人じゃ持ち上げられなくて。……申し訳ないけど、」
「構いませんよ」
本題を思い出して申し訳なさそうに身を縮めるなまえさんに頷いて俺は立ち上がる。なまえさんの先導で二人して納戸に行く。薄暗いそこへ入れば随分と沢山本があるのだと思った。そして背表紙を見て少しだけ目を細めた。そこにあったのは医学書が大半だった。こんなところでもあの男の影がちらつくのかと思うと悔しいような気がしたけれど、それを見るなまえさんの横顔に少しその考えを改める。とても懐かしそうな彼女の顔は寂寥と幸福を混ぜ合わせたような複雑な感情を表出していた。ゆっくりと懐かしむように悼むように背表紙をなぞる彼女の指に纏わりつく埃がなまえさんのあの男への想いと痛みの大きさを俺に教えた。
傷つけないようになまえさんの手を取ってその指に触れる。不思議そうな顔で俺を見たなまえさんに俺は何も言わず彼女の指から埃を拭い去った。
「汚れてしまいますよ。……ところで、運んで欲しい本とはどれですか?」
「あれ……、あの行李よ。少し高い所にあるし、梯子が必要かしら?」
漸く薄暗さに目が慣れてきて、なまえさんの指の先を視線で追って頷く。その行李は俺の背丈より幾分か高い所にあった。梯子を持ってこようとするなまえさんを制する。梯子を持ってくる方が手間だと思って、それを背伸びして取ろうとした。少しばかり背伸びをすれば予想通り俺の両手は行李を確りと掴む事が出来、俺はゆっくりとそれを引き摺った。そこまでは良かったのだが、俺はうっかり隣の棚を引っかけたらしい。あ、と思った時には棚の上の方から本が降って来る、なまえさんの上に。
「……きゃあっ!」
「危ない!」
目を瞑って身構える彼女の身体を抱いてばらばらと落ちて来る沢山の本から彼女を守るために覆い被さった。落ちてくる本はどれも軽くて痛みはそれ程感じなかったけれど、事が収まってから初めて、俺の下にまた彼女がいる事に気付いた。時間が止まったように俺たちは見つめ合っていた。不思議なくらい周囲から音が消え、俺はただひたすらに彼女の顔を見つめていた。彼女も俺の顔を見ていた。顔を近付ける俺になまえさんは静かに目を瞑った。唇が触れ合う、はずだった。
「……!?」
ばさっと良い音と共に後頭部に衝撃。角が当たったのかこれは少しばかり痛かった。目から星が飛び出たような気がした。俺の下で星が散ったような大きな黒い瞳が零れ落ちそうなくらいに見開かれて、それからはっとしたように俺の頬に手が添えられる。
「~~~~っ!」
「大丈夫!?怪我は……!」
良いところを邪魔された腹いせもあった。俺は少し涙目だったような気もするけれどなまえさんの言葉に返答する事無く、彼女の後頭部に手を添えて、そっと彼女に口付けた。そうするのが正解なような気が、そうしなければいけないような気がなぜかした。なまえさんは一瞬驚いたように身を硬くしたけれど抵抗せず、ただ俺の服を弱く握っていた。そして唇が離れる一瞬彼女は俺の後頭部を撫でて「こぶが出来てる」と笑った。
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