時間が、止まった気がした。柔らかい音と共に畳に倒れ伏したなまえさんは何が起こったのか分からないというように俺を見た。無言だった。俺も彼女も。
俺の身体の下、虚を突かれたような表情をするなまえさんの濡れた頬をなぞる。肉欲と対極にあるような彼女を、そういう風に見た事が無いというとそれは嘘であった。俺は確かに彼女の「女」の部分を見ていて、彼女と「そう」なりたいという欲望を持っていた。その片鱗があの口付けで顔を出した、出してしまった、それだけだった。だがそれは他のどんな場面で表出したとしても絶対に今であってはいけない、それだけは確かな事だった。
「なまえさん……、」
沈黙を誤魔化すように絞り出した彼女の名前は酷く熱を持った響きで転がり、この道化を生々しく、現実のものと俺たちに認識させる。本当ならば全てを無かった事に出来たはずなのに、たった一言彼女の名を呼んだ事で取り返しのつかない状態まで事態は拗れたのだ。震えるなまえさんの瞳は未だに状況を把握しかねているのか無機質に揺れていた。
「……なまえ、」
抵抗されない事を良い事にもう一度、彼女の名を呼んで唇を奪う。触れるだけでなく、食んで、舐って俺の好きに。なまえさんは俺の服を縋るように握って身を硬くしていた。
「っぁ、……ん、ふっ……」
呼吸の合間に零れるなまえさんの吐息に心臓が高く脈打ち、身体が熱くなるのが分かる。ぞくぞくと震えるような刺激が俺の腰から脳髄へと伝達を始め、俺は本能の求めるままになまえさんの唇を貪った。
そしてどれ程の時間が経ったのだろう。漸く、少しばかり満たされて彼女の唇を解放した時、なまえさんは荒い息を吐きながらしどけなく横たわるばかりであった。
「ひゃくのすけ、ちゃ……」
は、は、と息も整わない内から俺の名を呼ぶ彼女の瞳から零れ落ちた透明な雫が酷く艶やかで堪らず喉を鳴らした俺に彼女は身体を揺らした。
「なん、で……」
弱々しい抗議に怯みそうになるのを必死に堪えながら俺は彼女の髪を纏めていた簪をそっと外した。これもあの男に貰ったものであろうかと考えたら胸の内が焼け付くように痛んだ。
「言わないと、分かりませんか?ですが言葉にしてもきっとあなたには伝わらないでしょう。……どれ程の言葉だって、軽過ぎますよ。俺の胸の内を表現するには」
そっと梳いた彼女の柔らかな髪が畳に散らばって黒い筋道を作る。俺はもう、止める気など無かった。たとえどんな痛み苦しみがあろうとも、彼女を手に入れる気でいた。それなのに。
「いや……、いやなの、っこれ以上、苦しみたくないの。あの人は、もう、どこにもいないのに……っ」
なまえさんは泣いていた。ぽろぽろと、真珠みたいな涙を零し、その白い頬を濡らして。俺みたいな男に組み敷かれているというのに抵抗もせずただ、力無く彼女は泣いていた。
その泣き顔は俺を腰抜けにさせるには十分過ぎた。手を伸ばして、彼女の頬をなぞる。俺に手を伸ばされて怯えたように震えるなまえさんの事を見ないフリをして、俺は彼女の眦を親指でそっと拭った。
俺の手から逃れるように顔を背けたなまえさんは俺の目を見ずに俺の肩を押す。なまえさんの力は酷く弱く、軍人の俺はそんな力、物ともしないはずだったのに何故か俺は簡単になまえさんを解放する事が出来た。
身を起こすなまえさんの瞳が揺れて、また一筋雫が頬を伝って落ちた。俺は何も出来なかった。物分かりの良い男になって寄る辺ない彼女のその涙を拭う事も、欲望だけで何も考えずに彼女をこの腕に抱く事も。俺は無力で、彼女は孤独だった。
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