あれだけなまえさんには近付くまいと決めたのに、結局俺は我慢出来なかった。「待て」なんて犬でも出来る芸当なのに俺はそれすら出来なくて、その事に罪悪感のような気分の高揚を感じながら久し振りになまえさんの家を訪れた時、その様子は以前とは全く様変わりしていた。
庭は荒れて、玄関先も少しばかり荒んでいた。この家はいつ来ても整然としていたから少し驚いた。
まさかという嫌な予感がしたが、少し気配を探れば家の中には一人分の気配があって、少し躊躇ってから、おとないを静かに告げるとやや間があって玄関扉の向こう側からとたとたと足音が聞こえる。それはなまえさんのもののような気がして俺は静かに息を吐いた。良かった、この荒れようはもしかして彼女は俺から手を引いて引っ越して仕舞ったのかと不安になったからだ。
扉が引かれてなまえさんが出た。彼女は俺を見て少し驚いたように目を見開いて、それから「久し振りね。全然来なかったから、私の事忘れちゃったのかと思ったわ」と言って微笑んだ。その顔は最後に会った時よりも確実に痩せていた。彼女のあまりの変貌に俺はうっかり次に出すべき言葉を忘れてしまって、それを思い出そうとして止めて無理矢理別の言葉に変えた。
「大丈夫ですか?あまり、調子が良いように見えませんが……」
俺の言葉は随分と白々しく空間に浮かんで溶けた。本当はなまえさんの耳に届く前に消えてしまえば良かったのだろうけれど、それは当然なまえさんの耳に届いたらしく彼女は顔を緩めて微笑んだ。でも、無理して笑っているように見えて俺の心臓は変に跳ねた。
「大丈夫よ。でも、家の掃除は行き届いていないし、玄関先も荒れてしまっているからそう見えるのかしら。……上がって頂戴。私一人だからいつにも増して、何のお構いも出来ないけれど」
「……いえ、」
俺に背を向けて、俺を先導するその小さな背中は疲れていた。肉体的な疲労ではない。勿論それもあるだろうけれど、それよりも感情の、全ての精神活動において、彼女は疲弊していた。その事を声高に主張も出来ないくらいに。
「……ぁ、」
「ッ、オイ!」
不意に、見つめていたなまえさんの背が揺れる。ふら、と支えを失くしたようにふらついた彼女の身体が俺の方に傾いでくるのを俺は慌てて抱き留めた。柔らかな香りと体温に眩暈がして、それ以上にその軽さが恐ろしかった。
「……、大丈夫ですか?」
「ええ……、平気……、ごめんなさいね。疲れているのかしら……」
弱々しく微笑んだ彼女は少しの間俺を見つめると、そっと俺の頬に触れた。柔らかな手の触れ方はまるで情人へのそれのような気がして俺の心臓はおかしな方向に上擦る。期待してはいけないと分かっているのに心臓の上擦りは止まらなくて俺は彼女にされるがまま、彼女の言葉を待った。
「 」
小さく動いた彼女の唇が、紡いだ名前は俺のものではないような気がした。でもそれで良かった。その名前で呼ばれる事が、彼女をこの腕に抱く理由になるのならば。俺はそれで良かった。
「……ごめんなさいね。残暑が厳しいでしょう?よく眠れないの」
静かに微笑んだなまえさんを解放して、俺は彼女の言い訳にもならない言葉に納得したフリをする聞き分けの良い男を演じる。「眠れないのならば、昼寝をしても良いかも知れませんね」なんて、俺は馬鹿だ。もっと、言える事も言いたい事もあるだろうが。
なまえさんも「子どもっぽくないかしら」なんて笑って言うな。アンタが言いたい事は、そんな事じゃないだろう。残暑が厳しいなんて嘘ばかりだ。今年は冷夏で、去年よりずっと夜は涼しいのに。
圧倒的な無力感しか感じなかった。俺は無力だ。彼女のために何一つ出来ることは無い。それどころか、奪ってばかりだ。俺は気付いている。この家にはもうずっと、一人分の気配しかなかった。
「お手伝いさんにね、暇を出したの」
良い人だったけど、お給金を出せる程、もう余裕も無いし。
俺が勘付いたと悟ったのか無理に笑うなまえさんにあの女の俺を睨む目が思い出される。ああ、本当に俺が彼女を苦しめている。彼女は俺とあの女中の間にあった事を知っていたのだ。
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