皆、逝去

勇作兄様が亡くなられた。お父様も。戦争は私から何もかもを奪ってしまった。私のお母様は私を産み落として亡くなられたからこの広い屋敷に私は一人ぼっち。使用人は皆蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。私にはもう、何も。

「……なまえさん」

ああ、百之助兄様だけだ。

「百之助兄様……」

百之助兄様は前々から一人ぼっちになってしまった私を気遣ってくれていて、今日は私の様子を見に来てくれていたのだ。でも私はそれに対応するのがどうにも億劫で今までは適当な口実を作って会うのを避けていた。百之助兄様に会って勇作兄様やお父様の話をすれば否応なく私が一人になってしまったことを正視しなければならなくなるような気がして。

それでもいつまでもそんな口実が続く訳も無く。玄関でおとないの言葉を告げる百之助兄様を私は漸く屋敷に上げたのだった。

客間に膝を突き合わせるようにして座って俯く。百之助兄様の顔を上目で窺えば百之助兄様はもう一度私の名を呼んだ。気遣わし気な顔で私を見る百之助兄様はいつまで経っても私のことをさん付けで呼ぶ。私はずっとずっと百之助兄様になまえと呼んでくださいと言っていたのに。

「お辛かったでしょう」

そっと私の頬を撫ぜて私の身体を引き寄せる百之助兄様の身体は大きくて頼もしくて私の心を揺り動かすには十分だった。必死に耐えようとするのに百之助兄様の大きな手が私の背中を擦るせいで勇作兄様の面影がちらついて目頭が熱くなる。軍人の娘は泣いてはならぬとお父様にも勇作兄様にも言われていたのに言い付けも守れない私は悪い子なのだ。

「どうせ誰も見ていない。俺も誰にも言うつもりはありません」

耳元で囁かれる声は酷く安心するもので私の心を大きく揺さぶる。その揺らぎが頂点に達した時、眦から一筋雫が零れ落ちた。それが決壊の時だった。

「ゆ、さく、あにさまぁ……っ!おとうさま、っ……!」

ぼろぼろと零れる涙を拭うことも出来ず私はただひたすらに百之助兄様の腕の中で泣いた。その間ずっと、百之助兄様は私の背を擦りながら「大丈夫、まだ、俺がいますよ」と繰り返した。その声が勇作兄様と百之助兄様と過ごした本当に僅かの時間を思い起こさせて、私の中の喪失の痛みを明確にさせる。

みっともなく声を上げて泣く私を百之助兄様はずっとずっと腕に抱いてくれていた。幼い時にお父様に叱られて泣いていた私を慰めてくれた勇作兄様のように。

どうして勇作兄様は私を置いて逝ってしまったのだろう。「必ず帰って来るよ」と言ってくれたのに。お父様も私のことを「世界で一番大切だ」と仰ってくださったのに。

***

泣いて泣いて泣き尽くした私を未だ腕に抱き、百之助兄様はそっと私の髪を梳く。その仕草が勇作兄様を思い起こさせてまた涙が滲む。百之助兄様に気付かれないように掌でそれを拭う。私が腕の中で動いたのを感じ取ったのか百之助兄様が私の顔を覗き込んだ。

「ごめんなさい、百之助兄様もお辛いのに……」

悲しみは終わることは無いけれど、これ程までに感情を露にしたのはお父様とお兄様が亡くなってから初めての様に思う。百之助兄様は私の言葉に首を振ると、濡れた私の眦をそっと拭う。

「俺のことなど良いのです。俺は、」

「え?」

「……いえ、なんでもありません」

言い澱むように目を逸らした百之助兄様は私の顔から視線を外して少し遠くを見透かすように目を細めた。それからふぅ、と息を吐くとまた私の顔を見た。私も百之助兄様の顔を見て、それから百之助兄様の瞳が変わらず真っ黒なことに人知れず安心した。たとえ誰が変わっても、百之助兄様だけは変わらないのだと知って。

「これから、どうされる御積もりですか」

「お父様の御兄弟も先の戦争で皆戦死なされましたから、大変なのは家だけではありませんもの。……とにかくどうにかして嫁入り先を探さなければなりませんね」

先の見えない不安を誤魔化すように百之助兄様に笑って見せれば、百之助兄様は考え込むように目線を右下に動かした。それから僅かに下唇を噛んで顔を顰めた。

「百之助兄様……?」

「……貴女にとってこれが幸福かは分からないが。……俺の許に来なさい」

ふ、と綺麗に微笑んだ百之助兄様の言葉に目を見開いてしまう。もしかして、百之助兄様は私を引き取ってくれる御積もりなのだろうか。

「あ、あの、それって」

「貴女は忘れているかもしれないが、貴女と俺は『家族』なのでしょう?」

至極当然のようにそう言い放つ百之助兄様は、私から少しだけ距離を取って立ち上がるとす、と私に手を差し伸べた。何も言われなかったけれどその手を取ることにもう理由などいらず、私は百之助兄様の手に静かに自分の手を重ねた。

「私のことを、家族と思ってくださるのですか?」

「……ええ、血の絆などこの上なく忌々しいとばかり思っていましたが、なまえ、貴女とならば悪くない」

「あ……!」

呼ばれた名前に驚けば、してやったりという顔の百之助兄様が口端を持ち上げていた。その顔はお父様とも勇作兄様とも違うけれど確かに私の兄様の顔だった。

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