そして奇妙な共同生活が始まった。正直に言って短くはない軍隊生活の中で俺はそれなりに協調性を身に付けたと自負していて、若い兄妹ともそれなりに上手くやっていけると思っていた。しかしながらそんな自負などたちどころにぶち壊される程、江渡貝兄妹は「酷かった」。
まず兄の江渡貝は神経質で、否、神経質過ぎて俺たちとは反りが合わなかった。少しでも物音を立てようものなら気が逸れるなどと怒り狂って作業を投げ出す。宥め賺して作業に戻そうとしても、集中出来ないだの何だのと弱音を吐く。
正直俺たちが出す音など些細な生活音であると思わないでもないが、こちらとしてはなるべく早く目的の物を得たい訳であって、俺たちの出す音が江渡貝の気を逸らすと言うのであれば従わざるを得ないという訳だ。
次いで妹のなまえの方は、一見まともに見えた。兄の江渡貝とは違って喚き散らしもしなければ不気味な鶴見中尉の人形を作りもしない。ただ江渡貝より厄介なのは彼女が此方を警戒して全く心を開いていない事だった。
江渡貝はそうは言っても一定此方に心を開いているのか、意思疎通が可能なのだ。しかしなまえの方はと言うと。
「失礼、なまえさん。少し宜しいですか」
「…………」
「あの、なまえさん、」
「…………」
終始この調子なのだ。此方が何を言おうが聞こうがまるきり無視。噤んだ口を開こうともせず、或いは此方の存在すら見えていないかの如く振る舞う。幾ら何とも思っていない相手だとしても気分の良いものではない。それが共同生活が始まってからずっとなのだから、そういう意味ではなまえの方が俺たちにとっては厄介であった。
「なまえ!」
「兄さん、どうしたの?」
相変わらず俺を無視するなまえに肩を竦めて江渡貝の様子を見に行こうとした時だった。不意に作業場から顔を出した江渡貝がなまえの名を呼ぶ。途端に顔を明るくしたなまえにため息を禁じ得ない。全く兄とそうでない者との間で対応が違い過ぎる。
「やっぱり無理なんだっ!ボクには出来ない!」
どうやら失敗続きの作業に自信を喪失したのかめそめそと作業場の入り口に蹲って弱音を吐く江渡貝に仕方なく俺は声を掛けようと立ち上がる。
「ほら、江渡貝くん、自信持って。集中……」
蹲る江渡貝の肩に手を掛けて彼の身体を起こそうとする。ぱしり、とその手に軽い衝撃が走ったのは突然だった。
「出来ないならさ、辞めちゃおうよ」
妙に明るい声、柔らかな慈愛に満ちた視線。俺の手を払ったのはなまえだった。へたり込んだ江渡貝の傍らに、埃っぽい床に膝を突き母親のような優しい手付きで江渡貝の髪を梳くなまえは今一度、「辞めたら?」と囁いた。
「おい、貴様……!」
「だって兄さんがこんな苦しい思いをする事なんて無いわ。だからね、一旦辞めよう?ねえ、ただでさえ、最近徹夜続きよ。まずは少し寝よう?眠ったら頭もすっきりする筈よ」
「うん……でも、」
てっきり「この仕事」そのものを放棄させようとしているのかと思い怒鳴り掛けた俺を気にも留めず、むずかるように首を振る江渡貝の背を軽く叩いたなまえは宥めるように「寝よう」と小さく口にする。江渡貝はそれに反抗するように尚も何かぶつぶつと言っていたが、次第にその声も小さくなっていき、気付けばそこには規則的な呼吸が聞こえるのみであった。
「……あの、」
「っ、何だ?」
唐突に(しかも初めて)声を掛けられて一瞬心臓がおかしな方向に跳ねたのを誤魔化すように咳払いする。なまえは俺の動揺に気付かなかったのか、それとも気付いた上で無視する腹積もりなのか何も言わず、江渡貝の頭を一度だけ撫でて立ち上がった。
「兄を運ぶの、手伝って貰えませんか」
「あ、ああ……」
確かに固くて埃っぽい床に彼を寝かして置く事も憚られ、一つ頷いて江渡貝を上向きにして抱え上げる。細い見た目通り軽い男は抱え上げた衝撃に僅かに顔を歪めたがそれでも起きる事は無くむにゃむにゃと何事か口の中で呟く。
「……兄に」
話し方が一々唐突な女だと思った。何の前触れも無く声が飛んで来て、そちらの方を見ればなまえは随分と不愉快そうな顔をしていた。
「兄に余り無理をさせないでください。……そうでなくても兄は没頭すると寝食を忘れる質なんです」
ちら、と兄の顔を横目で見て視線を落としたなまえは「ここです」と部屋の扉を開けた。小さな部屋にはベッドが一つあるだけでそれ以外には何も無かった。
「ここが江渡貝の部屋なのか?」
「……兄は剥製以外に興味が無いんです」
俺の言いたい事を察したのか、平坦な声で当然のように返したなまえは簡単にベッドを整えると甲斐甲斐しく江渡貝の靴を脱がせる。
「ありがとうございました。私じゃ兄は運べなかったから」
そっと江渡貝をベッドに横たえればなまえは俺を見て、礼を言った。カーテンに遮られて薄暗い部屋でも、その顔が笑みの形に模られている事に正直に驚いた。
「……何ですか?」
俺の動揺に訝しそうに目を細めるなまえに慌てて首を振る。
「いや、そんな顔も出来るのかと思っただけだ」
「そんな顔……」
「笑っていた」
俺の指摘になまえは目を見開いて、それからはにかむように俯いた。
「兄は、家族だから」
小さな声に今度は此方が面食らう番であった。歪んだ巣で育った子どもは普通の愛情など知らないのだという勝手な思い込みがあった。目の前のこの娘も、何処か歪んだ視点で兄を見ていたのかと思っていたのだ。
「……私の世界には、兄だけいれば良いんです。だから早く帰って貰えませんか?」
「…………」
俺の感心は間違いだったようだ。矢張り彼らは歪んでいる、そう内心で結論付け、なまえの苦言を右から左に受け流しながら、俺は江渡貝の部屋を去るのであった。しかしながら後で一人になって気付いた事は、なまえは割とよく喋る質だという事だろうか。普通の娘らしいところに微笑ましさが溢れるのを前山に「顔が緩んでいる」と指摘されて居た堪れない気持ちになったのは言うまでもない。
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