私の世界、終わり。

母の束縛にどうしても耐えられなかった時、私には一つだけ隠れ場所があった。兄さんの「趣味」のために流れ着いた夕張は炭鉱の町で、そこは町に打ち捨てられた墓場のようなところだった。私のような人間の出来損ないには全くお似合いの場所であると、誰に見られるでもなく微笑んだものだった。

廃線になったトロッコ置き場は人も無く、何も無く、ただ、今までせっせと町の発展に寄与した物の残骸が打ち捨てられた町という存在から切り取られた墓場。でもそこは、そこだけは私の安息の場所だった。母は外出が嫌いな上に、今床に臥せっている兄(母に生殖機能を絶たれた。父の血を残さないために)を監視するという名目で家の中に籠っていたから最近は外に出る事はほとんど無かった。そして私が何か適当な理由を付けて、(例えば兄の看病のための買い物とか)外に出る事が出来れば、追いかけて来る者はおらずそれは束の間の私の自由であった。

私はいつも、そこで膝を抱えていた。涙など出なかった。父を喪った時でさえ滲みもしなかったそれが今更流れる筈も無い。私は膝を抱えてただ、美しい幼い頃の記憶の延長を探していた。頼もしくて強い父が私たちを守ってくれて、優しくて美しい母が私を撫でてくれる。兄さんは大好きな動物の仕事に就いて、私は誰か好いた人と将来を約束する。

それはきっと世の「普通」。そして私はもう二度とそれを手に入れることは出来ない。私は、私たちは、私と兄さんは、もう二度と。一生歪なまま暮らしていかなければならないのかと思うと、それは私を絶望の塊を呑み込んだような気分にさせた。何かがおかしいと、子どもの頃から分かっていた。本当は正しくないと、分かっていた。でも怖くて目を瞑った。その代償が今、私と私の大切な存在を蝕んで殺していく。いっそ、いっそ私がいなくなれば、歪んだ歯車も少しは。

「なまえ」

「っ!」

柔らかな優しい声がした。トロッコの陰に隠れていたのに、覗き込まれている。兄さんだった。

「……、起きていて、大丈夫?」

「少し熱っぽいけど、でもなまえが呼んでいる気がした」

言葉とは裏腹に、兄さんの顔色は酷く悪く、額には脂汗が浮かんでいた。それでも兄さんは微笑んで私の頭を小さく撫でた。優しい手付きが心臓に突き刺さるような気がして私は俯く。兄さんは昔から、私との隠れん坊が得意だった。いつもいつも私をすぐ見つけてしまって、それなのに私は兄さんが見つけられない。いつも私は兄さんが来るのを待つだけだった。

「兄さん、」

言葉にならない声はそう口にする事しか出来ない。おかしなことを言って、兄さんに詰られるのが怖かった。私が何もしてこなかった、その事が歪みを広げ、兄を傷付け、背負わなくても良い痛み苦しみまで与えているのだから。

「……ごめん、」

はっと顔を上げた。兄さんは眉を寄せて無理に微笑んでいた。泣いているようにさえ見えるその顔は、苦悩だった。なぜ謝られるのかが分からなくて、首を振る私に兄さんは私の隣に並んで壁に背を預けてずるずると座り込んだ。立っていられないくらいに辛いのだろう。

「どうして、兄さんが、」

「ボクがなまえを守らないといけないのに」

「え……?」

傷付いたように俯く横顔は術後の痛みに苦しんでいるというよりも、もっと別の精神的な何かがあるように見えた。それは兄さんの懺悔めいた言葉と関係があるのか。

「父さんと母さんがおかしくなった時、本当は兄であるボクがなまえを守らなきゃいけなかった……。でも、ボクは押し入れで泣いてばかりの役立たずで、こんなのはおかしいって分かっているのに、今だって何も言いだせない。……家族が壊れたのは、なまえがこんなところで独りで苦しんでいるのはボクのせいだ」

「ち、違う!違うの、全部、私が……、」

「なまえは、お前だけは美しい世界で終わりまで笑っていて欲しいな。好いた人と、可愛い子どもに囲まれてさ。お婆ちゃんになるまで元気で暮らすんだ」

「兄さ、」

「だから、なまえがそんな世界を見つけるまでは、ボクが――」

兄の言葉が聞こえない。雑音が混じるように周囲の聞きたい音が聞き取れなくなって、視界もぼやけていく。いいや、違う。聞きたい音が「本当の世界の音」に掻き消されて、視界が黒から白へ転換していっているのだ。嫌だ、「その世界」は嫌だ、悲しい事しかない世界は。帰りたくない。ずっと、優しい兄さんと――。

「なまえ!!」

「っ!」

あの時のように名を呼ばれたけれど、それは兄さんではなかった。焦りを含んだ刺々しい声で、私の名を呼んだのは月島さんであった。お風呂に入りに行くと言っていた筈なのに、衣服は煤に汚れ皮膚の露出している部分は傷だらけであった。迎えに来ると約束したのは兄さんで、月島さんじゃない。ただ事ではない雰囲気に身体も心も硬くなっていく。しかし時間は待ってくれないようであった。

「来い!!」

有無を言わせず手首を掴まれ引き摺られるように歩く。首を振って兄が、と言いかけた私の言葉を遮って、月島さんは怒鳴った。

「江渡貝の代わりに俺が来た!!」

それはどういう意味なのだろう、兄さんは。聞きたくて聞けない問いを胸に、私はどこをどう歩いたのか分からないまま連れ去られるように夕張の地を後にした。兄さんと過ごした家も、想い出も、何もかも置いてきて。

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