すすり泣くなまえから勇作の思い出を聞くのは今や俺の下らない日課に成り下がっていた。滑稽過ぎて嗤いも起こらない。お前の兄の仇が誰なのか、それをお前が知ってしまったらお前は壊れてしまうのか?それでもそれを詳らかにしてしまおうという気はもう起こらない。俺は何となく、気付いてしまったのだろう。この家族を取り巻く歪が、勇作一人のものではない事に。この兄妹は、どこか歪んでいる。その証拠に、なまえは斯くも幸福そうに笑いながら泣くのだから。
「……兄を喪ったという喪失の痛みが、今の彼女を形作っているのでしょう」
「ふむ、さながら悲劇の主人公を気取る事で自我を保っているという事か」
鶴見中尉への月に一度の定例報告を、俺は続けている。なまえが「俺の庇護下」に未だいるべき存在であるのかを。俺の報告如何によってはなまえはすぐに嫁ぎ先を見繕われても可笑しくない立ち位置にあった。
「それで……?なまえ嬢は未だ安息の翼の許で何も知らずに居られるのかね?」
「…………、」
「尾形上等兵?」
鶴見中尉の問いに、俺は上手く返答を出来ずにいた。正直に言って、俺はあの「義妹」を持て余しつつあった。泣きながら、俺が殺した男の事を話すなまえにその積もりは無くとも、そして俺に罪悪感が欠片も無かろうと、やはり目の前であれだけ泣かれれば良い心持ちはしない。いい加減背負いこんだ重しを外しても良いかとも感じる。だがしかしその一方で、あの兄妹の行く末を、見たいとも思う。俺が壊した、歪んだ兄妹。禁忌の兄妹の行く末をこのまま手放してしまっては勿体無いように思えた。
「……さあ。俺は最早どちらでも良い。如何でしょう、あの娘に選択を委ねては?」
なまえに執着しているとでも気取られるのが嫌で、肩を竦めてどうとでも取れるように言葉を発すれば、鶴見中尉は少しばかり意外そうな顔で俺を見た後で底の知れない笑みを深めて頷いた。
***
「兄様、お話とは何ですか?」
帰宅早々なまえを呼び出せば、なまえは無垢な顔で俺を見つめ、俺の座る卓の向かい側に慎ましく膝を揃えている。
透明な光を湛えた瞳が俺を映すのを一瞬見つめてから、俺は口を開いた。一瞬、勇作の無垢な狂気を秘めた顔が浮かんで消える。
「なまえ、潮時ではありませんか?」
「……え?」
俺の言葉を理解できないと言うかのように、無垢な瞳を大きく見開くなまえの顔を真正面から見る。なまえが美しい娘なのは間違いが無いという事は分かった。
「いい加減俺のような男の下にいてはあなたに取り返しのつかない悪い噂が立ってしまいます。そうなればあなたは一生一人という事だって、」
「嫌です!」
がた、と少し大きな音がして見れば卓の湯呑みが倒れていた。なまえが倒したらしい。じわじわと広がる湯呑みの中身にもなまえは気に留めない。ただ、縋るように俺の隣に寄ってきて、柔らかな手で俺の手を握った。
「百之助兄様は、なまえのどこがご不満なのですか?なまえは何でもします。お願いです、なまえをお側に置いてください」
「どこが不満と言う訳では……。しかしいつまでも『このまま』ではいられない事はあなたも分かっているでしょう。何故ならば俺たちは半分とは言え兄妹、」
「いいえ!」
ぎゅう、と白い小さな手が俺の硬い手を握り、高く鋭い声が俺の言葉を遮る。珍しい事になまえの好きにさせてみる。するとなまえは意を決したように口を開いた。
「なまえは知っています。……兄様が、百之助兄様が、なまえの本当の兄様ではない事くらい知っています!」
今度は俺が目を見開く番であった。なまえは知っていた?いつから?まさか知っていて、ずっと?
様々な推察が俺の脳裏を過ぎりしかし何を言葉にすれば良いのか分からない。用心深く発言しなければ、何か命取りをやらかすかも知れなかった。
「俺があなたとは何の繋がりもないただの男だと知っていて、俺の下に転がり込んだと?……ははッ、大した人だ」
「黙っていた事は謝ります、ごめんなさい、兄様……、いいえ、百之助様。でも、お願いです、なまえをあなたのお側に置いてください。何だってします、だからどうか、わたくしを……!」
今やなまえは恥も外聞もなく、俺の胸に身体を預けて、まるで恋人か何かにでもするように俺を強く抱く。
「しかし、なまえ。事実が如何であろうと、世間は、」
「世間など、知りません!禁忌など、所詮は大多数の共通項。わたくしは、そこには当て嵌まりません。……生まれた時から」
大きな瞳から零れる涙を、俺はもう、どれ程見てきただろう。いつか俺が俺の父上に言った事を思い出す。
行いには必ず結果がついてくる
これが俺の行いの結果であると言うのなら。
「っ、あ……」
なまえを胸に抱いて、それからゆっくりと押し倒す。何をされたのか分かっていない彼女の髪から簪を抜き、髪を乱し、耳許に手を突く。その頃になって漸くなまえは何をされたのか理解し始めたらしく、顔を耳まで赤らめる。
「ぁ、百之助、さま……」
「俺は知っていますよ。俺とあなたが一緒に居られる方法を。だがあなたは知っているはずだ。それは禁忌だという事を」
決定権はなまえに渡したつもりだが、彼女は拒否しないだろうという確信があった。ここまできて俺を拒んだら、笑えるが。
「構いません……、どうか、なまえをあなたのお側にいさせてください……」
そっと目蓋を下ろしたなまえの眦から零れ落ちる雫を舌で辿りながら、思い起こす。
いつかなまえと同じ事を俺に頼んだあの男の事を。
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