その横顔は確かになまえねえさんであった。彼女は俺の記憶の中の彼女そのままに歳を重ねていた。他人の空似なんかじゃない、俺には確信があった。俺の少し先で今にも降り出しそうな空を見上げて眉を下げてため息を吐くその横顔は紛う事無きなまえねえさんであった。
「っ、……!」
なまえねえさん、と軽率に声をかけようとして躊躇いが生まれた。他人の空似を恐れた訳じゃあない。それよりも怖かったのは、彼女が俺を覚えていなかったら?という可能性の方だった。俺には俺の美しい想い出が俺の勘違いであることよりもそちらの方が恐ろしく感じられた。俺の思い出が「あのひと」にとっては何の価値も無かったと突き付けられる事の方がよっぽど。
ああ、それでも声をかけてみたい。どうしようもない衝動は俺の中で抑えきれないものへと姿を変えていく。もう二度と逢う事など叶わないと思っていた「あのひと」に俺は一体何を言いたいのだろう?
再会の喜び?或いは俺を捨てた事への恨み言?
俺自身俺の感情がもう分からなくなりつつあった。ああ、それでも早くしないと「あのひと」はまた俺の手を摺り抜けて行ってしまう。群衆の隙間を掻い潜って「あのひと」の腕を掴もうと手を伸ばした時だった。
―声をかけたとして、一体どうなるというのだ?
何処かでもう一人の俺が嘲笑うような声が聞こえた。俺は何も答えられなかった。忘れていた。俺は「このひとに捨てられた」身だという事を。俺はこのひとの人生に不必要の烙印を押されたのだという事を。そんな人間が、今更。脳裏にちらつくあの優男の顔を打ち消すように伸ばしかけた手を引っ込める。なんて馬鹿馬鹿しい。俺と「あのひと」との縁はもう、断ち切れた。この広い世界でたった二人が示し合わした訳でも無く再会だなんて、三流芝居でも有り得ない。なんと都合の良い幻を見た事か。
雑踏の中、不自然に立ち止まっていたせいで通行人が俺の事を邪魔そうに見ながら通り過ぎて行く。なまえねえさんはもう一度空を見上げてから荷物を抱え直して俺に背を向けた。ああ、これで本当にさよならだ。もう二度と。
「……、なまえ、ねえさん」
思わず溢れた俺の呟きは誰にも届かずに消えてしまうのだと、思っていた。それくらい小さな呟きだった。ああ、それなのに、やはりこの世界は実に奇妙だ。俺に背を向けたはずのなまえねえさんが、「誰かに呼ばれたように」肩を揺らし、振り返るのだから。
「…………え、」
その声、とても懐かしい。それ程に驚いた顔を俺は見た事が無かったけれど、俺の顔を見てそんな風に目を見開くという事は、あなたは俺の事を少しは覚えていてくれていたという事ですか?
見つめ合っている間、俺となまえねえさんの間からは全ての音が消えてしまったような気がした。それはいつか、俺の手柄をあの優男が横取りした時と同じようで違った。どうしてかそれは俺にとっては感じた事が無いくらいの凪を俺に齎したのだから。
「ひゃ、くのすけちゃん……?」
きっとそう言葉を発したのだろう。声は雑踏に紛れて聞こえなかったけれど、口の形だけで分かった。泣きたくなるくらいに懐かしくて、俺はまた、少年の頃に戻ってしまったみたいに何も言えなくてただ、頷いた。
「どうしてここに?ああ、本当に百之助ちゃんなのね、立派になったのね!」
俺に近付いて早々に「あの頃」と同じように俺の頬に手を伸ばすなまえ、さんは変わっていなかったけれど、随分と変わっていた。
俺より高かった背は俺よりも随分と低くなっていて、硬かった手は幾分も柔らかくなっていた。それでもその瞳の中の色も声音も何もかもが「あの頃」と同じだった。
「……入隊しました。今は、第七師団に配属されています」
俺の言葉に何かを察したのか、なまえさんは少しだけ眉を寄せた。それから無理したように笑った。「あの頃」からは想像もできないような疲れた顔だった。
「この後、時間あるかしら?久し振りの再会に、少しだけ浸りたいの」
雨も降り出した事だしね、と空を見上げるなまえさんに倣って俺も空を見上げる。ぽつり、と頬を打つ雨粒を感じて顔を下ろした。降り出した雨に群衆も俄かに慌て出す。
俺は少しばかり迷ってから微かに頷いた。そういえば、「あの男」はどこに行ったのだろう、となまえさんの傘の中に入れてもらいながら何となく考えていた。
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