紫陽花の咲くころに

俺の腕の中、身を硬くするなまえさんは「あの日」最後に見たなまえねえさんとは随分違っていた。肩を押されたってもう、俺の抱き寄せる力の方が強い。

「冗談は、止めて頂戴な、百之助ちゃん。私はあなたを、見捨てて」

「それでも、俺にはきっとずっとあなただけだったと言ったら?」

試すようになまえさんの瞳を覗き込む。揺れるその瞳はまだ、綺羅綺羅と輝いていた。それは俺にとって素直に救いだった。それでもなまえさんは首を振った。罪の意識など要らなかった。俺が欲しいのはもうずっと、あなただけだったのだから。そのためだったら俺は。

「……俺が、代わりになりましょう。あなたはきっとあの男の代わりなどいないと言うでしょうが、俺はきっと上手に代わりをやれますよ」

冗談めかして言ったつもりだったのに、俺のその言葉は随分と懇願したような声音で転がってしまって決まりの悪さばかりが浮き彫りになる。あなただけだ。俺をここまで恰好悪くさせてしまうのは。

「どうして、」

「さあ、どうしてでしょうね。俺はあなたを憎んでいたと思っていたんですが、可笑しいですね。あなたに再会して、そんな事もうどうでも良くなってしまった。……俺にはずっと、あなただけだった」

唇を噛み締めるなまえさんの前髪を掻き上げて口付ける。なまえさんの眦に光るそれをなぞって、俺はその白い首筋に顔を埋めた。

本当はきっと、ずっとこうしてあなたにもう一度抱き締められたかった。俺にとってあなたは今も昔もただ一人の人だったのだ。

「今はまだ、何も言わなくて構いません。俺だってこんなところであなたと再会して、混乱している。けど、俺はずっと、あなたにもう一度逢うために生きていたような気がするのです」

きつく、きつく、抱き締めるなまえさんの香りは「あの夜」から変わっていなかった。俺に家族を教え、手酷く裏切ったあなたはまるで花のようだ、と脳裏に何とは無しに過ぎった。

それは紅い派手な花で無ければ、白くて冷たい花でも無い。淡くて優しい色を湛えたあなたは、まるで俺が刈り取って燃やしてしまった紫陽花のような人だった。あなたが大好きだった紫陽花のような。

なまえさんを腕に抱いたままそっと目の端で外を窺えば、雨はどんどんと激しさを増していた。

篠突く雨が庭の草花を激しく打つ。ああ、この家にも紫陽花があるのですね、全くあなたらしい。雨粒に打たれ揺れる淡い色の花は正しくは萼が密集して出来たものであると教えてくれたのは「このひと」であった。俺の手をひいて、畦道を歩くあなたは時折俺の方を振り向いては微笑み、微笑んでは前を見た。俺はどうにもあなたの顔を見ることが出来ず俯いたまま、時偶に視線が絡んだのを慌てて逸らしたものだった。眺める間にも雨粒に打たれて成す術なく剥がれ落ちていく萼が地面を醜く汚す。紫陽花の咲くころに俺はいつも想い出す。どうしようもない程の暗闇に惑い死に逝く俺を救ってくれたなまえねえさんを。俺を捨ててあの男を選び再び俺を暗闇に突き落としたなまえねえさんを。俺は確かになまえねえさんを憎んでいた筈なのに、それなのに。俺は想い出す。

紫陽花の咲くころに、俺を裏切った汚い「大人」の筈なのにそれでも未だ愛おしいなまえねえさんを、彼女と過ごした美しい少年の日の想い出を。

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